2011年06月11日

この震災の先に見えてくるもの・中編

 今回の地震を通して、人々の胸に去来した思いの、その具体的内容とはどのようなものなのであろうか。例えばそれは、主に都心で帰宅困難な状態に陥り、郊外へと徒歩で歩き始めた人々の内奥からすでに、表れ始めていたのではないだろうか。  どういうことかというと、私は当日、地震のあった後に同僚が体調を崩したので、電車が動いていないこともあり、会社の車で送ることになったのだけれど、同僚を無事送り届け、会社へ引き返すその帰り道で、あの大渋滞に遭遇した。  歩道は、普段では考えられない程の人が歩いており、道路の車両はなかなか流れず、おそらく歩いていた方たちのほうが速かったと思われる。それもあって、歩いている方々の表情を見ることが出来たのだが、彼らからは、あまり悲壮感のようなものは感じ取れず、ただ黙々と歩いているといった印象を持った。同僚らしき人と話している人も見られたが、みな基本的には一人で、ある種の覚悟のようなものを窺い知るような、顔つきをされていたかと記憶している。これは憶測になるが、やはりより遠い道のりを、歩いていかなくてはならない、より郊外に住む人のほうが、そんな表情だったのではないかと思う。  当時は、おそらく彼らの大半が情報を得る手段が機能せずに、現状を把握できないままに歩みを進めていたことと思われるが、数多くの人は首都圏が震源ではなく、どこか別の地方で大きな地震があり、その為に首都圏でもかなり大きな揺れを感じたと考えた。と、私は確信に近い考えを持っていて、それは、日本列島に住む人々の豊富な地震体験に基づいていると私は考えていて、このことについて深く掘り下げるつもりはないので、同意される方もそうでない方も、ここでのご指摘及びご批判は別の機会にお願いしたい。つまりここでの要点は、彼らは自分よりもより困難な人たちがいるだろうと思いつつ、歩いていたと私は考えているということである。そのような気持ちを持ちながら、また一段階違うところで、自分の現状を見つめていたのではないだろうか。  彼らはその時、大変な思いをしながらも、一つのことを精一杯にやり切らねばならない状況に置かれたことを、これは間違いを恐れずに述べるならば、どこか肯定的に捕えていたのではないだろうか。しかも、それがなぜなのかがよく分からないままに、である。この何か説明のつかぬような気持ちの淵源にある、今消えかかりそうな思いのようなものが、これからの未来を見据えるときに、見直していきたいものなのである。  そして、渋滞の為、ブレーキを踏んでいる時間を、長く過ごすことになったドライバーたちは、ラジオの緊急特番に耳を傾けながら、歩道を目的地に向かい精一杯に歩く、そんな人たちを見ていたのではなかっただろうか。そして歩道からふと対向車線に目線を移すと、何台かに一台、窓を開け放している車がいることに気がつく。なぜそんなことに目がいったかと言えば、私も窓を開け放している一人だったからである。  なぜ、私は窓を開け放し、なぜ、同じような車が気になったかというと、この冬は、例年に比べ、久しぶりに寒く、あの日は、三月の上旬から中旬に差し掛かる頃で、東北では、まだ雪が降っていたことを、記憶されている方も多いであろう。そして関東でも、まだ寒い日が続いており、あの日、懸命に長く慣れない家路を、白い息を吐きながら、歩く人々を車の中から見ていると、目的地が同じ方向であれば、乗せて上げたいという思いが、自然と込み上げて来たのは、何も私一人に限ったことではなかったであろう。  しかし、私はそれほど長い距離を走っていたわけではないが、途中、私を含めて歩行者に声をかけるドライバーの姿を、私は一度も見なかった。その理由として、一つには、見知らぬ人へ声をかけることへの不安、そして、見知らぬ人から声をかけられた側の戸惑いを考えてのことと思う。ただ当時のことを考えると、その善意を不信に思う人は少なかったはずである。次に渋滞の中での予定外の行動(路肩に車を寄せたり、車から降りたりする等)をとることで、他車両が迷惑や混乱をすることを懸念して、躊躇された方もいたかもしれない。ただ一番の問題は、その時、どう考えても車よりも歩きのほうが、機動力があるであろうと感じていたドライバーたちは、一刻でも早く自宅やそれに準ずるような場所へ、帰りたいと思っていただろう人たちに対して、声をかけることを控えたのではなかろうか。  そのような思いがありつつも、やはり、この状況の中で、寒い外を精一杯に歩く人々を目の前にし、また東北で被災され、家はおろか町や村ごと流されて、身も心も計り知れないほど傷つき、今まさに辛い思いをされている方々が、ここよりも遥かに寒い場所で、この一夜を過ごさなければならないということに、思いを巡らせた時、ドライバーたちはいたたまれなくなり、暖房を切り、窓を開け放したのではなかっただろうか。(つづく)
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2011年06月10日

この震災の先に見えてくるもの・前編

 今回の地震は三陸沖で起こるものとしては、千年に一度のものらしい。そしてマグニチュード9という規模の地震は、観測史上でも5回位しかないのだそうだ。だが少し考えを巡らせれば、千年という時間の経過も、マグニチュード9という規模も、地球にとっては幾度となく繰り返されてきた、ごく自然のことなのだろうと思う。  しかし地球上にちっぽけなものとして存在する人間にとっては、最大限の衝撃を持って受け止められる事態であった。さらに原発の問題が拍車をかけ、事態は“災悪”となった。  東日本の太平洋沿岸を襲った津波は、各地に未曾有の被害をもたらし、首都圏では、都市機能が麻痺状態に陥るに至った。これにより、東北では数多くの死者、行方不明者、負傷者、避難者を出し、首都圏では多くの帰宅困難者を出した。そして福島県では原発の問題により、移住を余儀無くされるに至った多くの人々を生んだ。  今回、この場では当時、または現在、そしてこれからも続くのであろう被災された方々の悲しみや苦しみ、又震災や原発への政府や東電の対応に対する言及をすることはしない。それらは、あくまでも今回の話に関連するものにとどめる。  とどめるという言い方は少し違うかもしれない。それは、被災地で被災された方や、被災地にいなくとも被災地や被災者と深い関係性を持つ方々の、思いや気持ちはそのような体験をしていない私などには特に、計り知れないことであり、そのことに関しては、語る資格を持ち得ないというほうが正確かもしれない。また、この度の政府や東電の対応に関する意見となると、多岐に渉る上に、問題を細かく見ていく必要がある為、時間をかけねばならぬことと、今回私が述べようとしていることとは問題を異にする為である。それというのは、一つの事象を詳しく取り扱うことに、あまり重要性を与えていないということである。  そこで本題に入りたいと思う。私が今回述べてみたいことは、この度の震災とその後の数々の問題を通して、人々の心に浮上してきたような思いがある様に感じていて、そのことについて述べてみたいと思っている。  そしてここでいう「人々」とは、分かりやすく言えば、私のような人。つまり首都圏に住み、地震により生活や仕事に実害を受けてはいるが、それが破綻を来たすまでには至らず、広義の被災者でありながら、この震災をある程度冷静に見られた。そんな「人々」である。そしてこれらの「人々」が、どのような気持ちを抱いたかを考える為に、ごく簡単に当時の様子を振り返ってみたいと思う。  東北地方で最高震度7という巨大地震が起き、首都圏の人々もこのとき個人単位で見れば、かつてない激しい揺れを体験した人も少なくはないだろう。そして、地震の直後から首都圏においては、全ての電車が止まり、幹線道路は徐々に混雑を増し、次第に都内を中心に大渋滞となった。そんな状況下の為、首都圏の多くの人は地震発生直後から、徒歩での帰宅を目指し、郊外へと続く巨大な人の流れが出来た。それはさながら民族大移動のようであったと形容した人もあった。  また、テレビを見られる状況下にいた人々は、その画面に釘付けとなり、太平洋沿岸の東北の町や村が津波に飲み込まれていく光景を、その瞬間はただただ驚きと衝撃を持って見ているしかなかった。そして一夜が明け、各報道機関が東北の太平洋沿岸の町や村が跡形もなく津波によって流された映像を流したときに、多くの人々がこの震災の絶望的とも言えるような、全貌の一端を見たと思ったことであろう。さらにそれに輪をかけるように、福島第一原発で何か異常が発生しているとの報道により、人々の心と社会は混乱をするに至ったのであるように思う。  このような経緯を経て、今まで心の隅に追いやっていたような思いが、おそらくこの時多くの人々の心の表面に、気持ちとして浮かび上がって来たのではないかと私は考えていて、その気持ちをすくい上げ、大事にし、そこから見えてくる未来を見据えたいと思っている。(つづく)
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2009年07月04日

地球を救え!サンパチェンス!

戦隊物のタイトルのようですが実はそうではありません。 夏になるとよく花壇で目にする『インパチェンス』という花があります。 『サンパチェンス』はその種間雑種、つまり親戚のようなものです。 最近テレビや雑誌などでも紹介されていますが、これがなかなかの優れもの。 開発したサカタのタネの研究によれば 従来の園芸植物と比べて 地球温暖化の一原因と言われるCO2は4〜6倍、 排気ガスに含まれ、大気汚染をもたらすNO2で5〜8倍、 シックハウス症候群の原因、ホルムアルデヒドでは3〜4倍もの 高い吸収能力があるのだそうです。 また、『サンパチェンス』の表面温度を、 サーモカメラで計測したところ、 地面の温度よりも10℃以上も低く、 いわゆる「打ち水」効果による温度降下能力も 備えているのだそうです。 しかも夏の暑さにも強く、生育旺盛。 頼もしいぞ!サンパチェンス!
                                写真(サカタのタネHPより) もしかしたら、地球を救うのは巨額の資金を投じた科学的プロジェクトなんかではなくて 実は身近な動植物や昆虫や微生物だったりするのかもしれません。 「大気の浄化とヒートアイランド防止のために 政府法案により都会が花で埋め尽くされました!! 新宿のいたるところが花だらけです!」 そんなニュースが流れたらちょっとうれしいかもね・・・。
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2009年06月27日

南山を考える

稲城市にある丘陵地「南山(みなみやま)」 この緑深い雑木林におおわれた山は東京都に残る数少ない里山として 長い間、稲城市民や自然を愛する人たちの間で親しまれてきました。 四季折々の野草と、野鳥のさえずり、またオオタカや多摩丘陵一帯だけに生えるタマノカンアオイなど貴重な動植物も豊富な南山・・・ 今、その南山で何が起こっているのか・・・ 以前にこの事実を知ってから、いつかこのブログで紹介しようと思っていました。 長いですが、いろいろ考えていただければと思います。 * 少し難しいですが、守る会のHPで詳しく説明されています。→南山を考えよう * YouTubeにあげられた動画がわかりやすいです。 たくさん載せますのでお時間のあるときにご覧ください。 スーパーモーニング(その1) (その2) 噂の東京マガジン(その1) (その2) (その3) 行政の思惑と体質、地権者の事情、さまざまな利権・・・色々あるのかもしれませんが そんな人間側の事情は、樹木や動植物には関係ありません。 長年かけて出来上がった生態系も、壊すのは一瞬です。 森をつぶしてビバリーヒルズみたいな住宅地を作るということで 切られる木は8万本以上(!)だそうです たった1本の木でも、それを切ることで、 そこに棲むどれだけたくさんの生き物の命を奪うことになるかを考えるべきだと思います。 落ち葉が堆積して木や生き物たちの快適な住まいになっていた土壌を ブルドーザーで整地してしまったら、生き物達はどこに行ったらいいのでしょう。  (ちなみに土壌生物の数は、ミミズ、ダニなどの小動物が1uあたり数千〜数万匹、  微生物に至っては土1gあたり数千万〜数億個体が生息していると言われています。  土の中で、沢山の生物たちが活動することで、循環は成り立っています。) 里山をつぶして開発を進めることは、街なかでビルと建てることとは意味が違います。 いちど壊してしまった自然環境は、もう元に戻す事ができません。 取り返しのつかないことをする前にぜひ開発計画を見直していただきたいと思いました。    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ こうしたことって、規模の大きさはさまざまだけど私達の身近によくあることですよね。 開発と自然保護・・・背中合わせの難しい問題だと思います。 貴重な自然を未来の子供達に引き継ぐために、私達に出来ることは何だろう。 こういう問題をみんなに知ってもらうことかなぁ 折に触れて身近な自然を考えることかなぁ 微力ですが、まずは署名に参加してみました。 東京都稲城市のタヌキの暮らす多摩丘陵(南山)開発事業見直しを求める署名
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2009年06月07日

老人の価値

私はコピー人間です。 名前は福沢といいます。既に老境に入ってます。 商売は物流のお手伝いをしています。 といってもブローカーではなく、むしろ人質といったほうがあたっているかもしれません。 生まれてから休むことなく働きづめで、今や文字通りボロボロになってしまいました。 仕事柄、時には人に感謝されたり、拝まれたり、せまい機械に閉じ込められたり 身体を無理やり折り曲げられたりすることもあります。 それでもこんな老人にみんなとても優しくしてくれます。 ものすごい笑顔で迎えてくれます。 ですから親しくなった人とすぐ別れなければならなくなったときは、とても悲しい気持ちになります。 今までどれだけの人と別れたでしょう。 私もそろそろ身体に限界がやってきました。新しいコピーと替わる時期です。 ふりかえってみると、一抹の寂しさを感じます。 回収されて、粉々に砕かれ、ドロドロにされ、また新しいコピー人間として生まれ変わるのです。 こんな事を幾度となく繰り返す人生に私は少し嫌気がさしています。 そんな時近々新しい主人のところへ行くはずだった私は、 古い主人とはぐれてしまいました。 自分で動くことの出来ない私は道端にころげ落ち、 そのままホームレスになってしまいました。 人に踏まれ、雨に打たれ、犬におしっこをかけられました。 傷だらけになった私が地面で身体を休めていると、そこへ人がやってきて 満面に笑顔を浮かべ、私を拾い上げ、傷の手当てをしてくれました。 どうやら私はまた生き延びたようです。 ありがたいことに、歳をとって普通ならもう用済みなはずなのに、 まして高齢化社会で年寄りが疎外されるなかで、 まだ人に喜んでもらえる自分は本当に幸せ者です。 何の価値もないコピーの私に、勝手に価値をつけて喜んでくださるご主人様たちのおかげです。 本当にありがとうございます。                                 (ゆきち)
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2009年04月29日

地デジ

2009年4月25日のこと、外は雨が降っていました。 車の後部座席に身を沈めていた私は、奇妙な場面に出くわしました。 車が信号待ちで停車しているとき、何気なく外を見ていた私は、電気屋さんの店頭にある大きなテレビ画面に目が留まりました。 「」と思ったのはその時でした。 画面にはナイター中継が映っていて、ジャイアンツの投手がドラゴンズの打者に投球しようとしていました。 私はその投手が次に投ずる球が、ストライクでなくボールであることが既にわかっていたのです。 つまりテレビ画面上の投手がこれから投球動作を始めようとするとき、すでに私には結果がわかっていたのです。 一瞬錯覚か?!と思ったのですが、そのまま画面を凝視していると次の投球も明らかに私の時間よりも遅れている。 今度ははっきりと遅れているのが確認できました。 どうして私の時間のほうが早く、テレビ画面の映像が遅れていると思ったかというと、 それは簡単なことで、私は車のラジオで同じ試合の生中継を聞いていたのです。 こちらは生中継だから球場の時間と同じ進み方をしているわけです。 となると、テレビの画面が遅れていることになります。 えっ?テレビは実況中継じゃないのかな?いや、そんなはずは・・・ 今ラジオでやっているのと同じ試合なのにどうなっているんだ・・・ 完全に、昭和の私の頭は混乱をきたしてしまったので、同乗者に話しかけました。 「ねえ!プロ野球中継がいっこく堂だよ。ラジオとテレビで時差がある。どうなってるの?わかる?」 すると運転していた平成育ちのT君が 「あ〜、あれはデジタル放送ですよ。デジタルは1秒くらい遅れるんです。 JCOM(ケーブル放送)のように中継アンテナで一度電波を集めてから契約家庭へ送るので、その時差があるらしいです。」 「え〜!それどういうこと?」 「さぁ・・・うちも地デジのアンテナをつけたら遅れてます。」 「え〜!そんな大事なこと、どうしてみんな平気なの?」 現実の時間との間に時差が起こるということは、何か大変な事態が起こったときどうするのだろう。 たとえば地震発生前の警告音などもテレビでは2秒くらい遅れてしまうのだとすれば問題だろうし、 以前どこかの国では、国民支配のために実況放送を10秒くらい遅らせていたなんてことも聞いたことがある。 本当かうそかは知らないが、確か瞬時に情報が送れるというのがデジタル放送の売りではなかったのかな。 それともアナログ電波のほうが優秀なのだろうか。 いずれにしてもこんなハイテクな時代なら簡単にうめられる技術だと思うのですが、 それとも国中全部遅れてしまえば、遅れそのものがなくなってしまうという事なのでしょうか。 地デジの普及は、みんなが便利で効率的な暮らしが出来るということで政府は進めているのかも知れませんが、世の中には必ずしも便利や効率だけを求めている人ばかりではないと思うのです。 私などはいくら効率的だといわれても、サプリメントよりは生のほうがいいし、歯があるうちは流動食は食いたくない。 手間がかかっても噛んで味わいたいと思うし、肉体を動かしたいのでモニター画面を眺めるよりは外での労働のほうが好きです。 アナログなレコード盤のほうがデジタルのCDよりもオリジナルの歌手の声に近いという人もいます。 生物が多様なのはお互いが生きるうえでそれが一番有効だからではないでしょうか。 だとすればひとつの方法だけを選択し、それをよしとする社会はやがて絶滅生物と同じ運命をたどるような気がするのですがどうでしょうか。 「2011年から地デジ放送を開始し、アナログテレビは見られなくなります」 なんて毎日毎日強迫放送を流し続けているし、テレビ画面の右上隅にカタカナで「アナログ」なんて文字を出して嫌がらせをしている。(なぜかCMのときは出ていない) そこまでするなら時差ぐらいちゃんと埋めてほしい。 酔っ払って裸になったタレントをいじめてるヒマがあったら ちゃんとやれよ、総務大臣とやら。                                (おなら丸)
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2009年04月21日

最後の屁

「立つ鳥後を濁さず」という言葉がある。 後に残る人のために自分の存在した時の残骸を取り除き、その痕跡を消す。 それは次に生きる人に、まっさらな状態で生きる環境を引き継ぐという 自然界にあってはもっとも道理にかなった行ないである。 となるとわが人類は進歩とか発展などという掛け声と共に 全く正反対の行為をしていることになる。 つまり、生きる痕跡を残すとか、歴史に名を刻むとか、後を濁すことに必死になる生き方をしているのだ。 動物から見ればおかしなことだが、それほど人間はおのれの存在がただ消えてしまうのに絶えられない生き物なのだ。 とすると、なぜ「立つ鳥後を濁さず」なんて言葉を生み出したのだろうか。 考える脳を持ってしまった人間は、生きているというわずかな時間に 何か意味を持たせないと生きられない神経の細い生き物なのだ。 だから日々悩み、考えるのだ。 そして到達したところが、人生を充実して生きるというところなのだろう。 しかし、人生の充実は人によって異なる。 好きなように生きるのが人生の充実だとすれば、 立つ鳥は後を濁すことに抵抗はなくなる。 いや、むしろ「どうだ俺の濁し方は」と自慢する競争が始まったりする。 つまり歴史に名を刻むような人は、後のよごしかたを教えていることにほかならないことになる。 「立つ鳥後を濁さず」は罪深い人間の努力目標なのだろうか。 宇宙147億才、地球46億才、生物38億才 こんな途方もない時間の経過からすれば たかだか数千年の人類の痕跡なんてものは、蚊が刺した後ほどもないだろう。 しかしそれでも脳を持つ人間は考え続けるのだろう。 考えるのをやめたら生きていけないから。 生きた痕跡も残し続けるのだろう。 やがてなくなってしまうかもしれないのに。 そしてそのあげく、遠回りしてやっと「立つ鳥後を濁さず」の境地にたどり着くのだ。 なぜならそれが自然というものだから。 私はそう思っている。 「立つ鳥後を濁さず」 このいさぎよい響きの言葉の境地にたどり着くには 今の人間の生き方とは逆に「生きた痕跡を残さない。」「すべて無に返す」ことこそが重要なのだと思う。 歴史の風雪に耐えた骨董をありがたがるのは、人間の能力を賛美するあまりだ。 「いい仕事してますねぇ」ということになる。 一方、歴史の風雪に耐えた人間の年寄りにはそんな言葉はかけてもらえない。 私には長く生きただけでもすごいと思えるのだが・・・ 樹齢数千年も生きた木はそれだけでも人間を感動させる。 そして木は、倒れた後自分の痕跡を残そうとはしないだろう。 かく言う私も、こうしてブログに痕跡を残しているのだが ・・・・・・・・ 懺悔                                     (おなら丸)
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2009年04月15日

春のうらら

冬眠から覚めて久々にブログを書きます。 桜の花が若葉に変わりはじめた今日この頃 私にとっては一年で一番好きな季節です。 先日、とてもさわやかでいい天気なので、 うさぎの『きなこ』を東大農場の草むらに出してあげました。 すると『きなこ』は若草をむさぼるように食べ、前足で土を掘り始めました。 いきなりうさぎの本能に目覚めたかのようです。 散歩から帰った『きなこ』は巣箱の中で大きくあくびと背伸びをして、 どてっと横倒しになって昼寝に入りました。 その気持ちよさそうなこと。 見ている私もつい、うとうとと寝入ってしまうほどでした。 動物は食べて寝て、何も心配事がないようでうらやましいなと思いつつも、 自分が人間の脳を持ったまま動物になったら退屈でやんなっちゃうかもしれない、 など考える時 ふと、人間が忙しいのはヒマが怖いからではないかと思いました。 つまり忙しいのは暇をおそれたからであり、 ヒマがありすぎたら人間は狂ってしまうのだろうと思ったのです。 なぜか人間は、いや生きものはみんな、生まれたら死に向かって進んでいく。 (アメリカの映画にはその逆のストーリーがあったけど、 現実にはあんなことはありえません。) となると、脳を持った人間は、どうしてものがれようのない自分の消滅について 考えてしまうのではないでしょうか。 そこでなるべくそのことを考えないようにしようとしたり、 逆にそのことを生きる動機づけにしたり 生きてるうちに何かあかしを残したいなどと思ったり、 とにかく忙しく人生を生きたいと思ってしまうのではないでしょうか。 問題はそうしないと生きていけない社会の仕組みや考え方に 人間が支配されていることだと思います。 うさぎから見たらこっけいな話で、自然ではないと笑われるかもしれません。 忙しいから運動不足になり、フィットネスクラブに通ったり、ジョギングしたり、 本来自然の中で生きてる動物には、生きることそのものが体を動かすことであり、 わざわざ運動するなんて事はまずありません。 そこで私は、動物にも人間にも喜ばれ、しかも健康によいという体操を考案しました。 誰にでも簡単に出来て、手間も取らず、しかも健康によい。 金もかからない。そしてこれが嫌いという人はまずいない。 終わったあとは皆心地よさを感じるという、素晴らしいものです。 その体操とは背伸びです。 あくびと併用すればなお効果的です。 何だそんなの当たり前じゃないか、とおっしゃる向きには さらに高度なレベルの体操をひとつ。 これも誰にでも出来ます、が、完璧に出来る人はいません。 なぜなら、完璧に出来る人はこの世に存在できないからです。 その体操とは・・・死んだふり・・です。 全身の力を抜くむずかしさは、やってみないとわかりません。 やがて来る、人生の終わりに向けて心も身体も脱力するのです。 この心地よさも味わったらやめられません。(※注 本当に逝ってしまわないように) この背伸び死んだふりを組み合わせれば、人間は他の一切の運動などしなくても 健康でいられるというのが私の考案した心地よい体操なのです。 是非お試しを・・・                                  (おなら丸)                 外に出てご機嫌な『きなこさん』[#IMAGE|S60#]                  画像はうちのニャ王様から頂きました アリガトー
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2009年02月06日

スタンドプレー

電気スタンドのスイッチが手でタッチするだけになった。 スイッチを押す力も使いたくないほど人は楽をしたいのだろうか。 しかし、このスタンド完璧のようで不便だ。 消すつもりがないのに、たまたま手がぶつかったりしただけでも消えてしまう。 消えてしまったのは仕方ないとして、それを再びつけようとするといくら触ってもつかない。 そっと柔らかに・・・。 少し強めに・・・。 手の油をふいて・・・。 など、さまざまな方法を試してみる。 しかし、いっこうにつかない。 あきらめたそのとき、どこにどう触れたのかわからないのにいきなり点灯する。 これって私の使用方法が悪いというのか、そう言わんばかりの傲慢さを感じる。 いやそれ以前に主人がつけたいときにつかないスタンドって役に立たない(少なくとも私にとっては) そんなわけで違うものを求めに電気店に行ってみても今は流行なのか、同様なものしかない。 何故最近はエアコンなどもリモコン式だけになって、手動スイッチが表に設置してないのだろうか! どうして手動のスイッチをなくしてしまうのだろうか! スイッチは自分でON‐OFFを確かめてカチッ!カチッ!とつけたり消したりする方が気持ちいい! リモコンがあっても良いけど手動も残して欲しいし、 タッチだけでなくカチンとくるものを設置して欲しい。 そうでないと私の頭がカチンときてしまうのだ。                                           (おなら丸)
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2008年09月04日

オートマとマニュアル 後編

銀行などへ行くと、すべてコンピューターで対応されたり、コンピューターの処理しやすいように人間が書類を書かされる。そして、機械から出る「アリガトウゴザイマシタ」という感情のこもっていないあいさつなど、一体人間社会をこんなに合理化することの意味はなんだろうか。やはり、時間はかかっても、昔のように人間が窓口で対応してくれる方が、私は好きです。 そもそもコンピューターというものは、いつも最も正解な答えをひとつしか出さない。ふたつ出せと言えば出すのかもしれないけれど、ナビはいつも最短の行き方しか出さない。所詮、入力したデータからシャッフルしたり、予想したり、ということだと思うのですが、人間も経験したことから学習して予想を立てたりするわけだから、理屈はコンピューターと同じなんでしょうけど、大きな違いもある。 仮に、脳のしくみがコンピューターと同じだとしても、人間は生ものだし、感情もある。そして、人間の出す答えはいつもひとつだけではない。インディアンはいつも答えを7つもっているという。私達も、いつも複数の答えで迷うのです。迷った末に出す答えは、コンピューターとは違って、常に最善なものであるとは限らない。が、時には、その最善でない答えが最善になったりすることもあります。人間が考えに考えを重ねて導き出した答えは仮に最善ではないとしても、本人が納得して出したものであるから、たとえ間違っていたとしても後悔はなく、結果から何かを得ることも多々あります。自らは何も考えず、コンピューターの情報だけに頼ったり、他人の作ったマニュアルに疑問も持たず従って、行動するとすると、自分が納得するというプロセスがないため、血のかよわない無責任な行動になってしまう危険もあります。 オートマ車で坂道発進に失敗がなくなったことによって手に入れた安心感は、逆に油断を生み出す可能性も大きくなります。安心感を得て緊張感を失ってしまうとは、車の運転をする上ではマイナスかもしれません。オートマでもマニュアルでも、失敗したら事故につながるという緊張感は常にもっていなくてはならないのは当たり前のことですが、操作が簡単になれば、その分、緊張感がゆるむのも人間にはあることです。 私達がよく使う人間は機械ではない≠ニいう言葉は、裏返して考えれば、機械は間違わないという信頼につながります。その信頼が坂道でバックしてしうまうかもしれないとう心配から、運転者を開放してくれるのです。しかし、解放されたといっても、左足がペダルを踏まなくてもよくなったというぐらいのもので、そう複雑でもない車の運転から、さらに脳にとってはひとつ考えることが減ってしまうことになる。こうして、ひとつ便利になると、ひとつ能力をうしなってゆき、やがて人間は何も考えなくても機械が代わりにやってくれるので、複雑なことは、どんどん機械にまかせていくことになり、しまいには思考そのものをコンピューターに委ねることになるのかもしれない。なんか、教祖様に思考をおまかせする洗脳に似ているな、と思う次第です。 人間は、本来自由な思考を持っています。つまり、オートマな脳を持っているのです。しかし、世の中は今、人間にマニュアルを押し付けて思考を停止させていると思うのです。人に対面する仕事をしている人がマニュアルで対応して、機会をどんどんオートマにするというまったく反対のことをやっているのが今の日本の姿だと思えるのです。 いつも窓口のお姉さんをひやかしたい中年男のひとりごとでした。 (おなら丸)
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