2013年08月12日

北原町アニメ四つ角コラム

「しあわせ言葉」  僕はコミュニケーション不全かもしれない。と、思うときが間々ある。原因は分かっているつもりだ。それは自我が強くて、表面上はともかく他人の意見を心の底で受け入れきれないでいる、周りに身をゆだねる勇気がないのだと思う。口では結構えらそうなことを言っておいて、実は大した器も持っていないケツの穴の小さい男なのだ。  そんなある日、いつものように仏頂面(本人は自覚がありません)で仕事をしていると、知人が訪ねていらした。この方は先代社長の古い(失礼か?)仕事仲間でうちの会社とは懇意にして頂いている方で、僕も仕事で1年半ほどお付き合いさせていただいているが、少し遠方に住んでいらっしゃるので、直接お会いするのは二度目だった。そして事務室で社長と先代と談笑していた。  僕は別件で事務室を2,3度出入りしていた。そうしたらその方が僕のほうを見て、今日は僕に会いに来たことが分かった、というようなことをおっしゃるのである。今日は先代と社長に25%ずつ、そして僕に50%の割合で会いに来たとおっしゃって、後で話があるから少し待っていてとのことなのだ。そして一通り話し終えた後、いよいよ何を言われるのかと思っていたら、今から紙に書く言葉を毎日笑顔で言いなさいとのことだった。そして7つの言葉が書かれた一枚の紙切れを僕に手渡した。  その7つの言葉はごくシンプルなものだった。それはしあわせ言葉で、毎日くり返し言うとしあわせになるとのことだった。僕は毎日言うことを約束して別れの挨拶をした。そして今のところ毎朝家を出る前に実践している。  たぶん他の誰から言われても僕は実践しなかっただろうと思う。ではなぜ今回それを素直に実行できたのか、まあそれは単純なことである。実は僕の中にも自覚があって、それを一目見て気づいて声をかけてくれたことが単純にうれしくありがたく思ったということである。その感謝の気持ちと自己改善への思いを込めて、僕は明日の朝も家を出る前に、はにかみつつ笑顔でしあわせ言葉を口にすることだろう。 四つ角の番人
ekuraanimal.png
posted by アニメ制作会社エクラアニマル at 20:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | コラム

2013年08月03日

北原町アニメ四つ角コラム

「6年目、決意の初陣」  なんだか僕だけが夏休みにでも入ってしまったような心持ちだ。それは関わっていた作品の仕事が一段落したからなのだけれど、ただ他のスタッフの皆は別作品で今日も忙しく働いていることだろう。それは何か少し申し訳なくも思う。  今回の作品では、本当に一人ひとりのスタッフがいることで作品制作が成り立っていることをあらためて実感させられた。たぶんそれは僕の経歴とも関係があるのだろう。それは僕が初めて担当した作品にまで遡ることになる。  それというのもその担当した作品のコンテから原画までのスタッフはたったの一人、つまりそれはコンテ、演出、作監、そして全カットの原画を一人でこなしてしまうという、まるでスーパーマンのような方と初めての仕事をやることになったのだ。  このような制作体制だと自然、その方を中心に作品制作が進む、というよりはそうなる他ないと言った方が正しいかもしれない。事実、原画よりも先の工程に進むまではほぼこの方とのやり取りに終始することになる。そしてこちらの配慮もその方に集中してしまう傾向にあった。それでもこのときは初めての仕事ということもあり、教えられたことを精一杯やろうと取り組み、それなりにきちんとこなしたと思っている。ただその後この方とは4年間近く一緒に仕事をさせていただくことになるのだが、そこで僕の脆さが露呈した。  どうなったかというと、正直な話だんだんと甘えが出てくるようになった。その方とのやり取りを最低限きちんとさえしていればと、その他のスタッフに対しての配慮を怠るようになる。はっきり言ってこれは制作失格である。実際元請のプロデューサーからも厳しい苦言を呈された(事実上の制作(僕の)降板要求)。ただ当時、自社に僕のほかに制作がいないこともあり、その作品に関しては最後まで担当をさせてもらった。このことについては関係者に対して衷心よりの感謝と謝罪を表するより他にない。  その後その反省を胸に懐き、心機一転自社の自主制作に取り組んでいった。その作品では各部門でスタッフに恵まれ、本当に良い作品を制作することができた。この作品では、専門の分野で作品を支えてくれるスタッフのありがたみというものを痛いほど感じた。ただこの自主制作作品を通じて一制作としてあらためて思ったことは、限られたスケジュールの中で、ある程度の人数の原画マンが参加する作品をきちんと回せるようにならないといけないな、ということだった。これは、一般的な制作進行にとっては極々あたりまえのことなのだけれど、僕にとってはどこかで経験しなくてはならないことであり、その機会は入社6年目にして初めて訪れたのだった。  それが冒頭の作品ことである。やはり今回もいろいろな方に迷惑をかけつつではあるけれども、何とかまともな制作進行への第一歩を、6年越しで踏み出せたのではないかと自分では思っているのだけれど、果たしてどうなのか、それは今後の僕の仕事ぶり次第だろう。 (四つ角の番人)
ekuraanimal.png
posted by アニメ制作会社エクラアニマル at 00:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | コラム

2012年09月25日

『ぼくらが出合った戦争』

去る8月30日、ある本が出版されました。 内容は、引きあげのまん画家12人の 引きあげの記録です。 20万人以上の方たちが日本に 戻ることを夢みて生命を 落としました。涙なくしては読めません。 一番年長だった上田トシコは 引きあげがなかったらまん画家に ならなかったとのこと。 本の中では、上田先生の記載 がたくさんあり「フイチンさん」が アニメになったことも 書かれてました。うれしい!! みんなもぜひ、読んで下さい。 私は夜中いっきに読みました。 トニー
ekuraanimal.png
posted by アニメ制作会社エクラアニマル at 00:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | コラム

2011年11月29日

迷惑な生ゴミ

ゴミとは何かと考えてみると、役に立たない捨てるべき物とでもなるのでしょうか? 考えてみれば、地球から見たら我々人間もゴミにすぎないのかも知れません。生まれたら最後、やがて確実にゴミになる存在であることには違いなく、しかも資源ゴミのように再利用はできません。せいぜい生ゴミとして土の栄養になるぐらいしか役に立たないのです。いや、土の栄養になるなら素晴らしいことですが、今はゴミをそのまま保存しようとするようになり、そういう商売が繁盛しているようです。 これはいいことなのかどうかわかりませんが、自然界の他の動植物で自らの残骸を残そうとする者は果たしてあるのでしょうか(アリ塚っていうぐらいだから、アリはどうなのかはわからないが)。恐らくないないのではないかと思います。感情的には残そうという気持ちもわかりますが、あくまで地球上の自然という目線で見れば人間の方が不自然と言えるのではないかと思います。 いずれにしましても、地球のゴミになるのは間違いないことで、それは生まれた時から既に想定済のことであります。となれば、人間は自分というゴミの処理について無関心でいいわけはありません。かくいう私も、自分がゴミになった後のことについては現時点ではまだ考えていないので、ヘタするとポイ捨ての可能性もあり、そうなるとタバコのポイ捨てする人同様に罪深い、しかもタバコのポイ捨てなら捨てた人がまた拾うことも可能ですが、人間のポイ捨ては捨てた時自分は既に人間ではないわけで、自分で自分を拾うこともできません。従って、どんなに自分は他人の世話にはならないし、自分のことは自分でできると言っている人でも、自分というゴミの後始末は他人に頼むしかありません。 よく子供に「人に迷惑をかけなければ何をやってもいいんだよ」と教える親がいますが、自分というゴミを片付けるという一見においても、人間は他人に迷惑をかけなければ生きられないことはわかります。ですから子供に教えるとすれば、「人間は元々人に迷惑をかけなければ生きられない存在なのだから、何かする時はそれが人の役に立つのかどうかをよく考えてから行動しなさい」と言う方が正しいのではないでしょうか?何をしてもいいという考えは一見個人を解放しているように見えますが、実はせっかく人間に生まれたのに、動物になりなさいと言っているように私には聞こえてなりません。 そこで私が考える親が子供に教えるべきことは只1つです。 それは「自分のことを考えるより、先に人のことを考えなさい」と。 またまた上から目線で気持ちよく言ってしまいました。 自戒をこめて  おなら丸
ekuraanimal.png
posted by アニメ制作会社エクラアニマル at 22:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | コラム

2011年11月24日

不法投棄

ゴミという言葉の響きは、一般的に不要の物、価値の無いもの、快適な生活を邪魔する物…というような概念を想起させる。 一方で、ゴミは捨てれば邪魔物になるが、拾えば資源になる。元々資源を使用可能なものから不可能なものにしただけなのだから、再生させればまた有益な資源に生まれ変わる。ただし、そのためのエネルギーとして別の有益を資源として使用するので、再生させるか使用不可の物にするかは、再生させる時のコストの問題になってくる。その資源がもともと自然のものであればコストはかからないが、現在のゴミでやっかいなのは人工のものだ。 新聞の投書筒で出したゴミは、自らが処理するのが自治の基本、というのがあった。つまり自分が作り出したゴミは自分で片付けるのが当たり前ということだ。路上にポイ捨てされているタバコの吸い殻などを見ると、全く仰る通りである。ポイ捨てするぐらいだから、元々の持ち主は自分で片付けようとはしない。誰かが代わりに片付けているのだ。でなければ、道路は吸い殻の山になってしまう。その拾う誰かさんはとってもやっかいなことに出会う。それはタバコのフィルターだ。紙が破れても中身はなかなか風化しないで、繊維質みたいなものが舗装道路にへばりついているとなかなか拾いにくい。おそらくタバコを吸う人は拾う人の苦労など考えないだろう。いや、タバコ会社の人もそんなところまで気は回さないだろう。そこまで考える会社ならば、あのような材料を使ったフィルターは作らないだろうから。 そこでさっきの自治の基本というやつだ。自分で作り出したゴミを自分で片付けろというが、この場合、ゴミを作り出したのは誰になるのか。もちろんポイ捨てをした人に1番の責任はある。タバコ会社は「我々はゴミを作り出した覚えは無い。では聞くが、新しいフィルターと、ゴミとして捨てられたフィルターは違う資源でできているのか?」と、もし違わないというのであれば、その資源を使用可能なものから不可能なものにした人にゴミ処理の責任が生ずることになる。それは吸った人、ポイ捨てした人だ。しかしフィルターを作った会社は使用後は使用不可となり、数人がポイ捨てするかしないかに関係なく処理が必要なことは最初からわかっているはずである、にも関わらず、使用不可となったものの処理について製造した会社は何の責任も持たなくて良いというのであれば、それは地雷を作った会社がその使用結果については想定出来るにも関わらず、その地雷で殺戮が行われても何の責任も感じる事が無いと同じように、使用した人のみが責任を問われることに似ている。ゴミのようにまかれた地雷は簡単には撤去できない。もちろん吸い殻をポイ捨てした人と地雷を敷設した人に第1義的な責任はある。しかし地球上のゴミという点から見れば吸い殻の処理も地雷の残骸の処理責任も、作った会社には当然ある。 何故ならそれぞれの会社がタバコも地雷も作らなければゴミになりようがないのだから…。 同様に全ての商品として製作されたものは、使用した人と製作した人(販売する人)がその廃棄物の処理については同等の責任を負担すべきである。 冒頭で自治の基本はゴミを作り出した人が自分で片付けるのが基本という紹介をしたが、このゴミを作り出した人の中には、使用した人だけでなく、商品を作った人、売った人も含まれるべきである。そう考えるのが当たり前である。 昔、自然にある物だけで生活している時は、ほとんど物は循環出来たからごみなどという概念は稀薄だった。しかし、化学の発達によって人工物がたくさん作られるようになってから自然の循環では処理できないゴミが大量に増えた。ならば再利用も含めた処理については関わった全ての人が責任もって処理するのが道理だ。酒酔い運転は運転者本人に最大の責任がある事は当然だが、運転者と知って酒をすすめた人、同乗するのに止めなかった人なども処罰を受けるようになった。麻薬は日本においては作っても売っても使用しても罰せられる。なのに製品の廃棄物は使用した人のみ、その責任を負わされ、製作者や販売者は知らん顔ってのでは馬借に合わない。使用した人はそれを使うしかないから使用したのであって、でなければ使用する事も無いのにも関わらずである。 税金を使って役所でゴミ集めをするのも、埋め立てをする処分場がいっぱいになったらまた新たに場所を探して作らなければならない。それには莫大なコストがかかる。 ここはひとつ、みんなで負担を分け合って根本的にゴミを減らすように、ゴミになるものはなるべく作らない、売らない、使用しないというように知恵を出し合うことが大事である、と、上から目線で申してみました。 おなら丸
ekuraanimal.png
posted by アニメ制作会社エクラアニマル at 21:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | コラム

2011年09月12日

『ボランティアは石もて追われよ』

 一九九五年に阪神淡路大震災が起きたとき、ボランティアとしてたくさんの人が被災地に向かいました。  若い人たちの中には、骨を埋める覚悟で行くという人もいるほど熱気があったのに、地震から二、三年も経つと、その人たちが私にこぼすようになったのです。「はじめは涙を流して喜んでいた人たちが、そのうち慣れて小間使いのように自分たちをこき使う」、「やってくれるのが当然という態度で、ありがとうの一言もない」など。  しかし私はこう思うのです。「それは君たちがまちがっている。そもそもボランティアというのは、最後は『石もて追われる』存在であるべきなのだから」。(中略)ほんとうに自らの身を投じて仕事をすれば、ついには追われるのが自然です。  最後にみんなから大きな感謝とともに送り出される、などと考えてはならない。「もう帰っていいよ」と言われたら、「はいそうですか」と帰ってくればいい。いい体験をさせてもらいました、ありがとう、と心の中でつぶやきつつです。そう覚悟してこそボランティアなのだと思います。(中略)それでもしだれかが、「ありがとう」と言ってくれて、もし相手に思いがつうじたなら、狂喜乱舞すればいいのです。 (五木寛之 著 『人間の覚悟』 新潮新書 2008年より抜粋)                                                つじ
ekuraanimal.png
posted by アニメ制作会社エクラアニマル at 19:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | コラム

2011年08月03日

使用人の選び方

自画自賛、これほど他人から見て滑稽で恥ずかしいことはない。自分で自分をほめる、心の中でだけならまだしも、人前でやるのだから厚顔無恥もはなはだしい。この恥ずかしいことを堂々と人前でやる人がいる。一体どういう神経をしているのだろうか。 面白いことにこの恥ずかしい人たちはどちらかというと教育水準の高い人たちである。「ぼうや一体何を教わってきたの」という歌の文句にぴったりの人たちだ。民主主義社会においては彼らは国民に選ばれた、国民に代わって政を行なう人たちをいうことになる。従って彼らの報酬は税金であがなう、つまり国民が主人とすれば使用人ということになろうか。 しかしこの使用人は主人のいうことはあまり聞かない、むしろ主人に対して命令したりする。主人に不利益をもたらしても、主人の命を危険にさらしてもなんの呵責もなく、居直る。こんな使用人が存在できるのが民主主義社会ということになる。 でも果たしてこれが本当の民主主義なのだろうか。いやこんな使用人がのさばる社会は民主主義であるはずがない、と思いたいのだがでもなぜそんな使用人が存在できるのだろう。 あれ、もしかしてうちの犬と同じで使用人の中で主人に対してランキングがあって、散歩につれていってフンのそうじをする私はランキングの下位だけど、エサをくれるのが本当の主人でその人の意見だけはちゃんと聞いているのかも知れないぞ。いやそうに違いない。彼ら使用人の態度はうちの飼い犬にそっくりだ。だとすると彼らの自画自賛はエサをくれる主人に対する犬のお手とチンチンみたいなものか。まてよ、チンチンのない人もいるぞ.... いづれにしてもそういうことならば使用人が雇い主をランキングするのは、就職する側が会社を選ぶようなものだからやむを得ないとしよう。いやまて! 犬にエサをやるのが上で散歩は下だとしてもだ。我が家の経済は私が支えている。ということはつまるところ犬のエサ代は私が負担していることになる。だとすると飼い犬にランキングをつけられるのはいささか不本意だ。 同様に国のサイフもひとつである以上、主人は等しくエサ代を負担している、使用人ごときにランキングをつけられるいわれはない。ちゃんと主人のいうことを聞かない使用人はクビにするしかない。ん? なに?! 主人は使用人をクビにできない、任期までだと。なんだそりゃあ、江戸時代は主人が気にいらなければ使用人はヒマを出されたんだぞ、今は江戸時代よりおくれてるのか、民主主義って封建主義より劣っているってことか。一体民主主義ってなに? ということで民主主義について考えてみた。 小学校の頃、学級委員の選挙をすると、誰もなり手がいなくて、結局みんなで候補者を推薦するということになる。いや本当は立候補したいものがいたかも知れないが、自分で自分を推薦するということは子供ながらに恥ずかしいことだと思っていたのかも知れない。ともかく推薦で「誰ちゃんがいいと思います」なんて感じで黒板に推薦された人の名前を書き出し、投票するか、あるいは挙手で選んでいたように記憶している。 何故立候補者がいなかったかというと、学級委員とかやるといろいろ役割があって、めんどうなこと引き受けるのがいやだったのと、頭のいいやつも自分からなりたいというのはちょっと気恥ずかしいので、人からたのまれてやったといういいわけが欲しかったのだろう。 そんな風だったから、大人がやる実際の市会議員の選挙とかを見るとなぜ大人は自分から立候補してまでいやなことをやりたがるのだろうかと不思議に思っていた。大人になってからそれはいろいろと欲望を満たすことだとわかってきたが、出たい人が出て選びたい人を選ぶというのは民主主義の基本であるから立候補でもいっこうに構わない。 むしろ立候補する人のほうが、一見やる気があっていいようにみえるし、だけどその人の自画自賛を聞いたところで候補者の中に選びたい人がいなかった場合はどうするのか。それでも誰かを選ぶしかないのか。抗議の無効投票するのか、それともいっそのこと棄権するか! ぐらいしか選択肢はない。そうはいっても仮に棄権などすれば権利放棄になり、他の候補者を有利にするだけでなく、自分は選んでなくても間接的に当選者を支持したということになる。それが多数決ということだ。 わが国は憲法で主権在民をうたっている。国民は主権者として自らの代わりに政を司る者を選び、選ばれた者が議会で多数をとって方針を決める。その方針にのっとって各省庁の役人や職員を動かす、いわゆる議会制民主主義国である。 民主主義のたてまえは一人は多数に従い、多数は一人を尊重するということだとしても結局多数決でものごとは決まってしまう。この多数決というのが民主主義の申し子のように、あるいは伝家の宝刀のように、いざというときの民主主義の黄門さまの印籠となるのである。 しかしこの印籠は過半数をとれば勝ちなので、反対意見が半数近くあったとしてもそれは全部切り捨てられてしまうのである。半数近くの反対意見があっても勝った側の方針を通すというのは乱暴すぎるのではないか、いや過半数でなく2/3以上の場合もあるがそれとて1/3の人は違う意見なのだ。 つまり多数決というのは、反対があることも想定とした上で実行に移すための方策ということができる。この方法で決めるなら議論をつくさなくても決定ができることにもなる。つまり多数決ぐらい反対意見を多く含む結果的に民主的でない解決方法はないのである。 ではどうすればよいか、それには徹底的に議論をつくし、全員で納得するしかない、それでも納得できない場合は意見を保留して決定に従う。そしてもし決定が間違いだった場合はその決定を提案した議員にはやめてもらい、替わりに保留していた意見を出した人が次の方針を提案できるようにする。よく政治家が命をかけるなんて軽々しく言うが、そう思っているならせめてこれぐらいの態度で決定に従わなければ、ウソだ。 自ら自画自賛するような選挙制度は自薦(立候補)をやめて他薦(推薦)にするべきだと思う。そして推薦された人もした人も同様にそれぞれの責任を果たさなくてはならない。つまり自分が推薦した人がちゃんとするように見守る必要がある。推薦されて当選した人が不正を行なったらただちに議員をやめなければならないのは当然であるばかりでなく、推薦した人も不正の責任を負われなければならない。こうすればかなり不正はふせげる。 今の日本の制度では当選したらやりほうだい犯罪を犯してもやめない議員もいる。しかも国民という主人は議員という使用人が不利益をもたらしてもクビにすることもできない。公園の遊具は子供に不利益をもたらしたらすぐ撤去されるのに原発が不利益をもたらしても撤去されないのと似ている。選んだ側にも責任がかせられればその責任を自覚し、自ら推薦した人を自らクビにすることができるようにするべきなのである。 おなら丸
ekuraanimal.png
posted by アニメ制作会社エクラアニマル at 17:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | コラム

2011年06月14日

この震災の先に見えてくるもの・終り

 確かに人間社会は、持ちつ持たれつで、成り立っているといえるし、そうであって欲しい。そしてそれは、我々人と自然との関係性においても同様であろう。現在、自然のことを語ろうとするとき、エネルギー問題を、無視するわけにはいかないと思っている。中でも、現在人々の最高、最大の関心事が原発のことであると思う。よって、原発のことから出発して、エネルギーと自然との問題をみていきたい。  まず原発であるが、これは早急に自然エネルギーへと、転換を図らなければならない。それは、すでに言うまでもなく、誰の目から見ても、その危険性は明らかであり、歴史を振り返れば、もはや人類には、技術の面でも思想の面でも、制御できるものではないであろう。そして私は、火力発電と水力発電についても、早急に自然エネルギーへと方向転換を、必要とすると考えている。  それは、火力発電を続ければ、かつて地上に存在し、現在は地中に閉じ込められていた二酸化炭素を、再び地上に排出し、大量の温室効果ガスを垂れ流すことになるし、また、水力発電は、ダム建設により、川魚が遡上できなくなる他、人を含む様々な生物の暮らしや、自然環境を激変させてしまう。そのようなことからも、私は、火力、水力の両発電共に反対であり、自然エネルギーへの転換を急務と考える。  ただ私は、これは緊急避難的な処置であると思っている。どういうことかというと、火力にしても、水力にしても、また原子力にしても、元を辿れば、これらも太陽光や風力、地熱等の発電と同じく、自然エネルギーだということができる。これは、当たり前の話になってしまうが、資源というものは、総じて地球上(地中も含む)あるいは宇宙空間からもたらされるものであるので、自然のものである。よって自然エネルギーということができる。ただ、発電するとき人間が、大幅に手を加えるかどうかの違いであるかと思う。そして、今まさに問題になっているのは、このことであろう。特に原子力と火力であるが、この両者は、人間が考え出した方法で発電を行うとき、大きな弊害を伴う。また、水力は、発電時というよりは、施設建設それ自体に問題がある。これらと比較すると、太陽光や風力、またバイオマス発電などは、それらの問題が比較的小さい、ということになるだろう。  では、なぜ私は、これらの自然エネルギーへの転換を、緊急避難的措置と考えるのかであるが、それは、ここまで私が述べてきたことの延長線上に、同じくこの問題も存在している為である。そして、それがどのようなものかを、自然とエネルギーのことを語るときの、もう一つの大きな問題である、資源の有限性ということを通して、見てみたいと思う。  ここで、今の私の話を不思議に思った方もいるかと思う。それは、自然エネルギー発電とは、環境に有害なことが極めて少なく、また、石油やガス、ウランなどの資源と違い、日光や風などを利用する為、おそらく人類が地球上に存在する間は、なくなることが無いであろう資源だからこそ、限りがあることが分かりきっている地下資源等に、頼ることは止めて、自然エネルギーへの転換を図らなくてはならないのであり、緊急避難的として措置を講ずることの意味合いが分かりかねる。と、いったようなご意見があるかもしれない。  私も、電気をつくり出す手段としては、従来の発電方法から自然エネルギー発電に、切り替えることは賛成なのである。ただそれは、地中にある二酸化炭素の地上への流出を止める為であり、放射能の脅威を無くす為であり、また自然環境をこれ以上むやみに破壊することを防ぐ為に他ならず、資源確保という意味においてではない。  なぜかといえば、前にも述べた(後編2)ように、これからの人間社会に必要なものの一つに、足るを知るということが、重要になってくると考えていて、足るを知るということと、無尽蔵の資源というものは、正反対に位置しており、資源に無限性を求めることは、地下資源を掘り尽くそうとしている、現在の目先の利益ばかりを追って、先のことを考えない思想の延長線上にあり、そのような考え方の先にある未来に、私は希望を見出すことはできない。  人々は、地下資源に限りがあると分かったときに、まずそれに代わる資源を探すことを始めたが、本当に第一義的にやらねばならなかったことは、電気というものの本質を、認識することであったと思う。  それは、電気をつくることとは、資源を食い続けることである以上、電気を使い続ける為には、永遠に資源の供給を確保しなければならない。それは、あたかも電気とは、足ることを知らない、欲望の塊のようであるといえる。ただ、この電気の欲望に、歯止めをかけることができるものが、資源の有限性だったのである。そして、このことが露見したときに、我々は、代替できるエネルギー源を探すのではなく、我々が平和に暮らす為の手段として、電気を使用することのあり方を、問わねばならなかったのである。  そして、その考え方は、ものの有限性というものを軸として、様々な物事に波及していけるものであったと思っている。一つ懸念があったとすれば、それは人類が、無公害で永続的に電気を供給し続けることができる、何らかの装置のようなものを人工的に開発してしまうことであったが、現在、取りざたされている自然エネルギーが、真にそれに限りなく近いものなのである。  この考え方は、一見すると、平和なように感じるが、私はもしこのようなことが実現するときが来たならば、それは、人々の欲望が最大限に増長した、社会が生まれるだろうと思っている。なぜならば、この社会は、一見すると平和的に個人の欲望を、追及することができそうに思うが、人の欲望とは果てしなく、すぐに他人の欲望と、衝突を起こすことになるからである。それは、欲望を求める手段が、無限の広がりを得ただけであり、欲望それ自体、特に物質的なものは、有限であり続けるからに他ならない。もしこのような社会で、全ての人の欲求が満たされ、尚且つ破綻を来たさない世の中が、成立する可能性があるとすれば、それは全人類が、その欲望を仮想現実の世界に、求めた場合であろう。ただし私は、その世の中を平和だとは思わないし、そんな味気ない世界は、まっぴらである。  長くなってしまったが、つまり私が述べたかったことは、自然の有限性を確認し、そのことを根底において、考えていくことが肝要ではないだろうかということであり、エネルギーも、目に見えるものであり、手に取ってみることもでき、歩いていって持ってこられるようなものが理想的に思えるが、私をはじめ、人々はなかなか電気から離れることはできないであろう。しかし、ここまで述べてきたようなことを踏まえて、私たちが、本気で生活の手段としての、電気というものを考えたときにはじめて、本当の意味で電気を使いこなせる人間というものが、生まれるのだと思う。  大切なことは、何事に対しても、必要なときに必要な分を得たり、作ったりし、そして必要な分だけを使う。そして残りが僅かになったときに、また作るということを繰り返すのである。そしてそれは、小さな単位でやっていくことになろう。そうであるならば、その労力が、人々にものの大事さを教えてくれ、また充足感をもたらしてくれるであろう。そのとき私たちは、本当の豊かさを再び諒解することが出来るのだと思う。  そして、最後に私が述べなければいけないことは、この文章が全体として、今回の震災で被災された方々の、被災者感情というものを、無視したような文面になってしまったことである。それは私の不徳の致す所であり、本来弁解の余地は無い。だが、今回、ここで述べたことは、震災以前より、私の心の中にあった思いであり、今回の震災を通して感じた様々な思いがあったればこそ、まとめられるに至ったものだと思っている。だからこそ、この震災の先に見えてくるものとは何か。それは、電気で皓皓と照らされた未来。では無く、ここまで一貫して述べ続けてきたことである。それは、震災の後に人々の心にぽっと点った灯のような思い、その小さなゆらめきを絶やしてはならない。なぜなら、その小さな炎に照らされた未来にこそ、大きな可能性があるからである。 追記 このだらだらと長い文章に、もし最後まで付き合って頂いた方がいたとすれば、     お疲れ様でした。そして、本当に拙く読みづらいこの文章を読んでくださって、     ありがとうございました。                                                  つじ
ekuraanimal.png
posted by アニメ制作会社エクラアニマル at 17:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | コラム

2011年06月13日

この震災の先に見えてくるもの・後編2

 日本という国が、本格的に近代化を始めて、約百五十年が経つと考えていいと思うが、その間に、個人主義の台頭が、他者の存在があることで、自らの価値があると感じさせていた人間を、自分させ良ければ、他人はどうでもいいという考えの人間に変え、また強力な統治能力を得た国家により、民衆は己の自治意識を薄れさせていき、そして市場原理主義を目指した資本主義の影響を受け、人々は何をするにも貨幣を中心に物事を考えるような思考を、持たざるを得なくなってしまった。  そして、それを打破しようとすれば、同じく長い年月をかける必要が出てくるだろう。ただそれは、何度も繰り返すように、人々の心が変わってしまったのではなく、そのような思いを心の隅に追いやってしまったり、また胸の奥にしまいこんでしまったりしているのだろうと思う。すでに大半の方が、私の述べたいことに気付かれていると思うが、私はこのような思いを、再び前面に引っ張り出してきたいのであり、そのような人々が、再び関係を結び直した未来を見据えたいのである。または、そのような人々が見据えた未来に、希望を見出すのである。その為に、過去を見つめ直さなければならない。  それが例えば、近代化なのである。先ほど私は、個人主義や強大な国民国家、また資本主義の負の部分ばかりを強調したが、このことの中には、良いことも含まれている筈なのである。それらを細かく検証していくことが、求められているのだと思う。しかし、やはりこれらのことに問題は多いのだ。だからこそ、近代化により虐げられたものこそを、よりよく見ていく必要があろう。  これは、何も懐古主義的な思いから述べているのではなく、本当に大切だと思うものが、そこにたくさんあるからに他ならない。そして現在とは、純然たる過去の積み重ねの上に成り立っているものである以上、その積み重ねられたものを、最も良い形で未来へ繋ぐことが、現在を生きる者の役割なのだと思う。繰り返せば、その為の過去の検証なのであり、ここで述べるならば、現代社会の我々の精神風土を築き上げた原因の追究ということになろう。  ところで、この前上司が、昔の日本人は足るを知るということをよく分かっていたのだな、という話をしてくれた。それは「天下取っても二合半」だとか、「立って半畳、寝て一畳」なんてことが、昔から言われていることが、それをよく物語っているというのである。私は、その話を聞いて、本当にその通りだなと思った。そしてそれこそが、かつて日本列島に生きた人々がつくりあげ、堅持してきた、最も大切な精神のひとつではなかったであろうか。  どういうことかといえば、足るを知るとは、自らの生活や人生が、満ち足りていると認識することであるならば、それは、些細なことに目を配ることができ、それらの価値を心得ていることから始まるのであろう。このことから出発するとき、人間以外を含む他者というものに生かされている己の存在を意識し、労働の本当の価値を知り、仕事に誇りを持てるようになり、自然もまた、人との対立軸に置くのではなく、自然の循環の一部、または協力者としての人間を了解できるようになり、さらに人と人の社会が成り立っている意味を、理解するに至るのであろう。このような心境が、充足した生活や人生を送る上での最も大切なことなのだと思う。そして、それは自分の目で見える範囲、自分の手で届く範囲、自分の足で赴ける範囲で、基本的には成り立つものなのだと思うし、またそれが一つの限界でもあるであろう。  だからこそ、この思想は、欲を貪り、果てしなく欲望を追い求めるような、現代社会や徒に拡大し続けるグローバル化に、楔を打ち込むことができるであろう。そして、今このような思いをもっている方や、すでにその思いをもって行動されている方が、たくさん出てきているように思う。しかし、世の中全体を俯瞰してみた時に、これらの人々はまだまだ少数派であると言わざるを得ず、実は私は、そのことに不安を感じ、このまま世の中の流れに押し流されてしまうのではないかという危惧に、焦りすら感じていた。そして、そんなことに思い悩んだりしているときに、今回の震災が起きたのだった。  それは、被災者や被災地にとってはもちろんのこと、その気持ちを少しでも分かろうとする全ての人にとって、辛く悲しいことであった。しかしその後、被災地には多くの奉仕者や支援者が集まり、また莫大な額の義援金や支援金が集まった。その結果に、ここまで述べてきたような、人々の純粋な思いを感じ、再び私は希望を持ちえたのである。  それは、私個人の問題であるから、置いておくとして、これからの被災地には、尚、深刻な問題が山積し続けている。そこで私は思うのであるが、本当の意味での復旧、復興というものは、おそらくそこで、これからもずっと暮らしていきたい、住み続けたいという人々、そう基本的には、地元民の手でしか為し得ないのだと思う。これは、決して善意の奉仕者や支援者の方々を、軽んじているわけではない。しかし、自分の子や孫、さらにその後に続く世代のことまでを考え、また、津波によって全てが流された跡地に、その土地特有の草木が芽吹いたことを、心の底から愛でることができる人々に対して、我々ができることは、やはり一時のお手伝い位のものであると思う。そして、それは現地へ向かう支援者の方々は、心得ておかねばならぬことであろう。ただそれは、この世はお互い様で、成り立っているからに他ならない。(つづく)
ekuraanimal.png
posted by アニメ制作会社エクラアニマル at 21:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | コラム

2011年06月12日

この震災の先に見えてくるもの・後編1

 震災当日、首都圏にできた人と車の長い列の中で、彼らの普段ならやらない行動や、その行動をとらせた思い、その深淵にあったものは何なのか。それは何も大袈裟なことではなく、人としての素直な気持ちまたは、思いなのだと思う。  例えばそれは、自分よりも困難な状況にいる人のことを思い、自らの大変さは顧みずに、ただ自分のやらねばならぬことをやりぬくことであり、また目の前で辛い思いをしている人に対して、現在の自分では救いの手を差し延べる力を持ち得ず、通り過ぎるしかないことを申し訳なく思う心であり、そんな自分を腑甲斐ないと感じる思いであろう。  これらのものは、人の為に何かをしたいとか、自分に正直に生きたいという、人間として、また人としての根源的な思いであるかと思う。そして多くの人が、このようなものを最も大切に、大事にしたいと思っているはずである。しかし実際には、前述(前編)したように、現在このような思いは人々の心の隅に追いやられてしまっているように思う。  その結果、これも前に述べた(中編)ように、遠い家路を歩いて帰る人に容易には声をかけられないドライバーたちを生み、また別の例を挙げれば、地震翌日に、ほとんどの電車が動いておらず、通勤することが、ほとんど困難に思える状況にも係わらず、こんなときにここまで大変なことをしてまで、わざわざ会社に行く必要があるのかと思いながらも、会社からの休業の支持がない限り、とりあえず会社へと出勤する人々を生んだのだと思う。このことの中に現代社会が抱える大きな問題が潜んでいるのだと思う。  それは、あの日道行く人々に声をかけることができずにいたドライバーたちは、確かに前述(中編)したような、心境を持っていた方もいたと思っているが、それ以上に歩道を歩く人々に声をかけるという行為をすること自体をためらったのではないだろうか。それは断られるかもしれないとか、あやしい人だと思われるかもしれないとか、何か不快感を覚えるような対応をされるかもしれないなどのことが、先行する為であろう。本来このような表面的なことよりも大事なことがあると知りつつも、である。  その具体例を示すならば、それは歩いている人々の中にもう歩くのは相当にしんどく、とても家まではたどり着けそうもないので、時間がかかってもいいから、車で家に向かいたい、せめてできるだけ近くまでいきたい。という方がいた場合、たとえ大勢の人にあやしまれようとも、その方の手助けをすることには、多大な価値が存在する。  同じようにその翌日、交通手段を失い、いつ会社にたどり着けるかも分からない中を、会社へと向かった多くの人々も、いまこんな状況の中を義務的に会社に向かうのではなく、困っている人の為に何かしてやらねばならないのではないかと思っていたことだろう。しかしなぜ、このような思いを優先できずに、表面的な感情や社会の体裁のようなもののほうをこんなときにまで、優先してしまうのか。  これは何も大事なものが分かっているのだから、人の目なんかは気にしないで、大切なことを守る為の行動をしていけば良いということを述べているのではない。もちろん、そのことを否定しているわけでは当然なく、そのような行動が取れる方々は、非常に尊い人だと思う。しかしここで問題にしていることは、すでにいまの社会の風潮や空気感のようなものが、人々にそのような感情を抱かせてしまうというところにあり、それが人々の行動にためらいを与え、人と人との関係性を歪なものにしているのだと思う。  その要因である現代社会の問題点とは、次のようなものだと考えている。近代化以降の蓄積により個人主義の社会、強大な統治能力を有する政府、そして市場原理主義の経済が現出してくる。そのことが我々の素朴な思いや気持ちから来る行動より、何事においても優先するような風潮や社会風土が確立してきたとき、現代社会が生まれ、人々はそのようなことを前提とした価値観の中で、共に泣き共に笑い合うような生活を過ごすようになって来たのではないかと思う。  では、私たちの素直な思いやそれによって生じていた行為というものは、どのような精神性を持つものなのであろうか。少し具体例を述べたいと思う。これは、私の母親が若い頃の話であるが、その頃は、電車に乗っているとき荷物を抱えて立っている人がいれば、前で座っている人がその荷物を持ってあげることは、当たり前のことだったし、また当時、傘は一人一本持つのが普通であり、今のように気軽に、コンビニエンスストアで買うといったような類のものではなかった。雨の日に傘を忘れれば、友達や同僚に入れてもらうか、家族などに迎えに来てもらえなければ、濡れて帰る他はなく、雨に打たれながら歩く人を見かければ、どこまで行くか行き先を尋ね、途中まで一緒に行くということが当たり前のことだったのである。  今なら見知らぬ人に電車の中で声をかけられても、あやしく感じたり、意味もなく周りの目を気にしたりして、荷物を渡す人は少ないだろう。同様に、雨の日に傘に入れてくれるという申し出に対しても、断る人がほとんどであろう。私は、母が体感していた社会は、善意が善意のまま素直に受け入れられる社会、または、無償奉仕というものが尊いとされた社会なのだと思う。そして、私は今の社会も、人々の善意や無償奉仕の精神などは、あまり変わっていないと思う。  では何が違うのであろうか、それは、人々がそれらの行為を受ける立場になったときの感じ方が、大きく変わったと思っている。それは先ほども述べたようなことで、他人の善意や無償奉仕を受けたときに、心ならずも邪念を抱いてしまうような、思考回路になってしまっていて、またそのような行為をする側も、そのことを意識せざるを得ない関係性が築かれてきてしまったのであり、それは、時間をかけて徐々に育ってきた精神風土なのだと思う。(つづく)
ekuraanimal.png
posted by アニメ制作会社エクラアニマル at 06:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | コラム