2014年03月23日

<自己嫌悪>

雨には弱い 風にも弱い 雪にも夏の暑さにも弱い 丈夫な体は持ってるけど 慾もいっぱい 自慢ばかり いつもうるさくしゃべっている 毎日食いきれない量の 肉や魚や野菜を食べ酒も飲み あらゆることに まず自分を優先し うわべだけ理解して 忘れっぽい 緑あふれる景勝地の コンクリート建ての豪邸に住み 東に病気の子供がいても 見くだすだけで看病はせず 西に疲れた母がいても 行って手伝おうとはせず 南に死にそうな人がいても 関係ないから無視をして 北に喧嘩や訴訟があれば おもしろいからもっとあおり 人のためには涙も流さず 己のためには人もだます みんなからもてはやされ 大いにほめられ あこがれられる そういうものに 私はなった おなら丸
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2014年03月10日

ゆとり教育

もう半世紀近く前のことだが私が高校生のとき、S先生という数学の教師がいた。 ちなみに県立の農業高校である。午前中の授業が始まるときは決まって 出席簿を見て遅刻した生徒がいると前に立たせ、黒板に数式の問題を 書いて生徒に解かせる。解けない生徒からは弁当をぼっしゅうしてしまうので 昼までに問題を解いて職員室へ持って行かないと弁当を返してもらえない。 先生曰く、「遅刻して問題も解けないようでは母ちゃんに申し訳ないべ」という 分けだ。もちろん先生に食べたれたら昼メシぬきになってしまうのでクラスの 秀才に頼んで解いてもらってあわてて持って行くと弁当はすでに先生の腹の中、 「お前の母ちゃんの弁当はうまかったと家に帰ったら報告しとけ」と言うので 母親に報告すると「やだ、先生が食うんだったらもっとちゃんとしたおかずに すればよかった」なんて先生のほうに気を使う始末だ。教師がまだ絶対の 信頼があった時代だ。この先生はとにかく変った先生でテストも独特な ものだった。答案用紙の上部に2体の動物の絵が並んで描かれている。 犬と猿とか猫と鼠いった具合に、その2体の動物の間に生徒の名前を 書かせるのだ。生徒はまるで幼児扱い、期末テストのときは馬と鹿が 描いてあったりする。絵の他には問題、次の因数分解を解けなんて書いて あるだけであとは白紙である。肝心の数式はない、用紙を配り終わった 段階で先生が黒板に問題を書き、それを各自、用紙に書き移させて 答案用紙の完成である。いつもこのパターンだ。先生曰く印刷の手間を はぶくのと、まだ問題を考えてなかったというのである。当時はガリ版印刷 といって油紙のようなものに鉄筆でキズをつけて1枚1枚手でローラーを ころがして印刷するのであるからたいへんだったろう。しかし問題を事前に 考えてないというのはいくらなんでもスゴすぎる。先生は自分の机の上に なにやらチョークで計算式のような、ラク書きのようなものを書いている 2〜3分したところで前述のように黒板に因数分解の数式を書くのである。 そしてさらにおどろくべきことに問題はこの一問だけ、ごくたまに2問のときも あるが、普通は1問だけ。先生いわく、100点と0点しかないからあとで採点が 楽だということらしい。そしてたいていの場合、100点とるのはクラスに1人か2人、 あとは0点の山だ1クラス54人いたので0点率は実に96%の高率だ。0点率が 多数派だ、そうなると100点とるやつのほうが逆に頭の変なやつみたいな 風潮になってくるので0点をなげくやつは誰もいない。生徒も先生も大笑いして 盛り上がっている。実にのどかなものだった。正解者が少ないのはつまり、 問題がむずかしくよほど数学が好きでないとまず解けない。ということが大きい。 期末テストなので0点のものは当然追試験ということになる。この追試というのが またまた型やぶりで、校内のマラソン大会で生徒と一緒に走る先生より早い 着順の者は合格ということだけど先生がなかなか健脚で多くの者が不合格 となり、再追試ということになる。さすがに今度は計算問題なのだけどこれが 3ケタの加減乗除の計算であったりする。それでもたまにまちがえる現役の 高校生もいたのだ。すると先生は単位が欲しかったら「父ちゃんと二人で一升 下げて来い」というのが口癖で、しかたなく親子で酒を持って先生の家へ行くと、 生徒の進路の相談に乗ってくれる、という具合である。これは後にわかったこと であるが、先生がほとんどの者が解けそうもないむずかしい数式の問題を 解かせようとしたのは、そういう学問が好きで、またそういう道に進みたい者向け だったのだ。多くが農業後継者なので0点が多くてもさしつかえない。追試の マラソンは生徒の別な面を引き出そうとしたことであり、三ケタの計算は大人に なって最低限必要なことであり、酒一升は先生と親子の対話の場をつくること だったのである。実際この先生は秀才の誉れ高い人であった、回りからは頭が 良すぎておかしくなった人というような評価もあったが、自分を振り返ってみると 当時学んだこともそれと別の仕事についたことによって、使う機械もないまま ほとんど忘れてしまったが3ケタの計算は今でもできるそしてまさに酒一升は 百薬の長であった。おかげで二升ぐらいは飲めるようになった。ワシの追試は 逃げ足の速さを生かしマラソンの段階で切りぬけた。おかげでいい職業に つくことができた。 おなら丸
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2014年02月05日

北原町アニメ四つ角コラム

「足りないもの」  何もないところから何かを造り出すことはやはり容易なことではない。だが、元々あるものに何かを付け加えたり、またはそれを分析したりすることはそう難しいことではない。たぶん多くの人が後者の方が得意なのではないだろうか。僕もまた、そんないちゃモンを付けるのが得意な一人だ。  何もないところから何かを生み出す、創造することが得意な人は、果たしてそうではない人とどこが違うのだろう。第一印象だとそういう人たちというのは自分を持っているというか、自身の中での考え方が出来ている、そんな印象を受ける。その考え方が正しい正しくない、善い悪いではなくて、その人自身の中ではもう想いが構築されていて、基本的にどんな事態に遭遇したときにも、自らの想いから同じスタンスで対処する。  しかし、多くの人々はそうではないのではないか、その事柄や場所、人物などによって対応を変える、まあそれは平たく言えば処世術なのだけど。だから芸術家や作家と呼ばれるような人は偏屈だったり頑固だったりするのかもしれない、まあ生き方が不器用な印象はある。それが何を意味するのか、恐らくは人間社会の枠や常識といったものから(精神的に)逸脱していることが多いためではないかと思う。  つまりどういうことかというと、そうではない人たちよりも本能に準じた生き方をしているのだろう。だから彼らには先立つものがあって、尚且つそれは根源的なものなのだ。それは彼らの性格や人間性に表れていて、その善し悪しは置いといて、非常に純粋性が高く偽りが少ない。だから先にも触れたように行動がはっきりしている、大変主体性があり多分に能動的である。  それと比べると僕らは主体性がなく、いつも受け身でいることが多い。だから何かを創造しようと思っても、まず何から始めればいいのかさえ戸惑ってしまう有り様だ。最初にテーマを決めるのか、制作に必要なものを用意するのか、それともとりあえずつくりはじめてみるのか、何もしない前から迷ってしまっている。そう、恐らくは「衝動」が足りないのだ。何かに突き動かされるようにモノゴトを制作するための「衝動」が。  ではその「衝動」をどうやって手に入れるのか、たぶんそれは手に入れるといった類のものではなく、あるとき己の内から湧き起こって来るようなものであるに違いない。だがそれがいつになるのかは皆目見当もつかない。というよりもそんな日が本当にやってくるのだろうか、こんな他人任せのようなことではきっと「衝動」はやっては来ない。  僕に足りないものは一体なんだろう。まあたくさんあるんだけど、大事なことはもっと単純で簡潔なはずだ。それは一体なんだ。頭の隅ではわかっているような気もするが、今の僕はそれを認識しようとしていない。なぜだろう、甘えや逃げの所為だろうか、それもあるだろう。しかしもっと根本的な問題ですぐに気が付くと思うんだけど、結局わからず仕舞いだ。それならわかるまで精進を重ねるしかない。  一般論で書き始めたはずが、いつの間にかモノをつくれないことに対する言い訳になってしまった。なんて情けない、トホホ。 四つ角の番人
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2014年02月03日

ヒーロー待望

子供の頃あこがれが2つあった。ひとつは顔をマスクで隠し、マントをひるがえして 悪と闘う正義のヒーロー、ふたつ目は身体を透明にして消してしまう透明人間だ。 あっ、もうひとつあった、人の考えていることがわかる能力だ。そしていつもこの あこがれを前程にしていろいろ空想するのである。例えば自分の好きな女の子が 悪人に囲まれて危険な目に会っているとき(この場合のヒロインは身近な女の子の ときもあればアイドルの芸能人だったりすることもある)正義のコスチュームを 身にまとった自分がかけつけ、悪人を撃退し、名前も告げずに去って行くのである。 時には睡眠時にそんな夢を見ることもあった。そしてこれは現在でも心に想って いる自分の原点である。透明人間のほうはと言うとこっちはちょっとダークで邪悪な 内容だ。他人の秘密を知りたい、自分が神様のように全能の人間になれば誰にも 負けないし、他人のプライベートを本人に気づかれないままのぞける。ついでに 風呂場ものぞける。自分にとって最強の能力だ。でも考えてみるとこの能力を 他の人がもってたら恐怖だ。だから人類にとってこのあこがれはまことに自分勝手 な願望ではある。正義の味方へのあこがれも透明人間への願望も自分にとっては 幼少の頃のいじめと無関係ではないと思う。理不尽な暴力に対してあらがい 切れない自分の弱さがあこがれの空想を強くさせていたように思う。それに比べて みっつ目の「人の心が読める能力」というのは少し成長して現実的な思考ができる ようになった頃の願望だ。これは今でも欲しい、「人の気持がわかる人間になりたい」 という意味で身につけたいと思っている。このみっつ目の能力は人間だれにとっても 一番大事な能力のように思う。人の気持になって考えることができれば世の中の 大半の問題は解決できるように思うからだ。世の中の多くの問題は「自分はこう 考えるから相手もこう考えるはずだ」という自分勝手な仮想のもとに生み出されて いることが多い。この見方はまったく自分本位に相手を見る、つまり自分の気持が 優先で他人の気持は2の次なのである。自分勝手なものの見方なのである。 ケイタイ電話の時代はますますその方向へ進んでいるように感じる。ケイタイの ない時代の待ち合わせは待っている相手のことを考えて行動するが、ケイタイの ある今は連絡さえすれば自分の都合を優先できる。つまり自分の気持が優先で、 行動は自分がかってに決められるのである。相手も同じことができるわけだから 一応関係性は成立する。つまりお互いに自分の気持を優先できる条件を手に 入れたわけである。ようするに社会が便利になるということはみんなが自分勝手を できる環境が増えたということで、その環境のために膨大なエネルギーを消費する 社会ということになっている。子供の頃あこがれた、透明人間になったり、人の心を 読んだりという夢は監視カメラや盗聴器という形で実現した。正義のヒーローは どういう形で現われるのだろうか、まったく自分本位に自分勝手に文章を書いている オイラはそれを待ち望んでいる。 おなら丸
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2014年01月18日

心の痛み

自分の発明が自分の予期せぬ方向へ利用されていき結果として人々を 不幸に導いてしまう。そんな場合発明者には責任があるのだろうか、 責任があるかどうかの判断はむずかしいとは思うが、元々その発明が 何の目的を持ってなされたか、ということは考慮されるべきだと思う。 例えばダイナマイトを発明したノーベルの場合、かたい岩盤をくだく方法 として発明されたのに戦争などの殺戮に利用され、自分の思わぬ方向に 利用された。結果としてそのことが莫大な利益を生みだした。と思っていたら、 晩年には新兵器の開発にもいそしんで科学者の発明が悲劇を生んでも 発明した科学者に責任はないと考えていたらしい。ノーベルがその財産を 人類に貢献した人に分け与えるのがノーベル賞だとすると、なんか罪滅ぼし のようにも感じられるが、本人はどういう気持ちだったのだろうか。たぶん 心を痛めていたに違いないだろうと思う。ロシアのカラシニコフという人が 発明した銃は人類史上最も多くの人を殺した武器とされているらしい。 この人もノーベルと同様に「武器に責任はない平和的に問題を解決できない 人々が悪い」と言っていたらしいが、なくなったあと、自分の銃が人命を 奪ったことに耐えがたい心の痛みをかかえていたらしいことがわかったという。 この二つの例を比較してみると大量の人命を奪ってしまったということで 一見似ているように見えるが内容はまったくちがう。ノーベルの場合は 殺人を前提として作ったわけではない。しかしカラシニコフは殺人を前提として つくっている。ダイナマイトは殺人以外にも使用目的はあるが銃はもともと 殺人をする武器である。包丁を野菜を切り刻む道具として使わないで殺人に 使うことはできる。これはダイナマイト同様目的とちがったことに利用された ケースだ。しかし日本刀は殺人を目的として作った武器である。銃も刀も 正しい使用目的は殺人なのである。しかしカラシニコフも刀鍛(刀匠)も 自分が作ったけど使用したわけではない。その意味では「武器」に責任はなく、 使用した人が悪いのである。刀鍛が自分で作った刀で殺人が行なわれて そのことで悩んだという話は聞いたことがない。また銃も刀も武器ではあるが 兵器ほど一気に大量の殺人をできるわけではない。銃や刀が問題ならば 原子爆弾や毒ガスなどの化学兵器も兵器である以上殺人を目的に作られた ものである。だからあえて兵器以外の使用をするとき原子力の平和利用などと 平和利用を強調するのだろう。平和と言えば聞こえはいいが、ダイナマイトと逆に 殺人目的で作ったものを目的とちがった利用したのが原発ということだとすれば 原子力を利用してもうけた人はノーベル賞のように賞を出してもいいと思うのだが そんな話はない。平和的といいつつ廃棄物の処理もわからないまま使用している 原発は現在進行形で人類に殺戮の不安を与えている。しかもこれはダイナマイトの ように思わぬ方向に使用されたのではなく。原発は兵器としての原子力を カモフラージュするために利用しているという側面もある。平和利用という言葉も カモフラージュで本当に平和的なものにはあえて平和利用なんていう必要もない。 そして平和利用という欺瞞を実行している人々にノーベルやカラシニコフのような 心の痛みを感じている人などおそらく一人もいないだろう。 おなら丸
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暴走族

いろいろ文明の利器はあるが資本主義の象徴は何といっても自動車だろう。 運転免許さえあれば誰でも自由に運転し、好きなところへ移動できる。 鉄道のように列車に乗って、みんなが同じ速度で走るのは社会主義的 だとすれば、車は個人個人の自由が保障されている。それこそ資本主義の 最大の魅力というべき物だろう(アメリカでは車を売るために元々あった鉄道を 廃止したところもあったらしい)。車にはアクセルもブレーキもついていて、 スピードをコントロールするのはドライバーの腕まかせということになっている。 商売に例えていえば誰もが自分の裁量でもって自由に金もうけが出来る というすばらしいシステムなのだ。そうは言ってもまったくの野放しでは トラブルが起きるので一定のルールはある。車の運転でもみんなが勝手に 走ったら危険なので、一応ルールがあり制限速度も決められている。 それでもなかにはルールを守らない人も出てくる。スピード違犯、暴走、 飲酒運転・・・バレなければOKというのは人間社会の特徴だ。同様に商売に おいてもルールを守らない人はたくさんいるし、場合によってはルール そのものを変えてしまおうとする人々もいる。低賃金労働、搾取などの 不当労働行為、不正な株の取り引き、脱税、不平等貿易、密売・・・始末に おえないのは車の運転とちがって制限速度がないので取り締まることが できないことである。スピード違犯のようなもうけ過ぎ違犯なんてないし、 欲望にまかせて突っ走ることが出来る。廃棄物の処理方法もわからないのに 原発をつくって金をもうける、そこまでして使い切れないほどの金をもうけて どうしたいのか、まともな神経のもち主ならみんな不思議に思うだろう。 しかし暴走族の人々はすでに走ることが目的になっている。走ることが 目的である以上止まることはない。ならば好きなだけ走ってもらえば いいと思う。一生暴走してもらって人生が終わる時にまとめて罰金をいただく。 今まで違犯を大目にみてやった当局(信頼に値する政府)は一切の財産を 罰金としていただくのだ。その財産でまた暴走しやすい環境を整備すれば よいと思うのですが、もちろん誰も賛成しないでしょう。ハハハ おなら丸
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2013年12月31日

どういたしましての心

エクラアニマルはどういたしましての心をもって市民活動に参加しています。 正確にいうとどういたしましてと言えるような活動をめざしているということ なのですが、わかりやすい例をあげますと、例えばせまい道路で対向車に 道をゆずられたときゆずられた側は当然のように感謝の手を上げます。 その時ゆずった側の人が何のリアクションもなくすれちがうとゆずられた側は 今ひとつ気持ちが晴れません。ゆずった側の人はどういう気持ちでゆずって くれたのか、ただ単に交通ルールにのっとってよけただけなのか、こちらの 状況を考え、お互い様と考えたのか、ゆずられた側の運転技術が未熟 だからか、その場合はゆっくりでいいよという気持ちなのか、それとも このヘタクソ早くしろという気持ちなのか、いずれにしてもその内心は わかりません。そんなとき、ゆずった側の人がゆずられた側の人の感謝の 合図に対して会釈の合図を返してあげればゆずられた側の気持ちは 日本晴れになります。この会釈はあらゆる場面で使えるものです。 エクラアニマルはこの会釈を大事にしたいと考えているのです。簡単なこと なのですが、このどういたしましてという会釈を返すには資格がいります。 あたり前なことではありますが、人にありがとうと感謝された場合のみ 返すことができる会釈だということです。つまり、どういたしましてと 言うためには、まず人にありがとうといわれるようなことをしなければ なりません。従って人に感謝されるようなことを見返りを求めずにやった 場合にのみどういたしましてとかあるいはお互いさまなどというように 言うことができるということです。昔子供達があこがれたヒーローは、 人を助けて感謝されたとき、あたり前のことをしただけですとかお礼の名前を たずねられても名のるほどの者ではありません。といいことをした自分に 多少のてれくささを感じサッとその場を去って行きました。何てカッコいいん でしょう。人に感謝されてうれしい気持ちの自分にさえ傲慢さを感じ、自分を 恥じて姿を消す、穴があったら入りたい心境なのです。つまり人から 感謝されることさえ、どうでもいいこと、感謝されたくてやるのではなく、 自分の生き方がそうさせているというだけのことです。ですからどういたしまして と言えるような活動をめざしているなどというのもまだ傲慢のきわみである といえます。ああ恥ずかしい。 おなら丸
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方便

およそ2500年前宇宙の真理は無常であるとお釈迦様が悟られた。宇宙に 存在するあらゆるものは生まれては滅し、滅しては生まれる。従って永遠な ものは何ひとつとしてない、人間の命も生まれたものは必ず滅していく運命に ある。もちろんひと以外の他の生きものも同様にこの法則の支配からは のがれられない。ということはあらゆる生物はたまたまここに存在している だけで、宇宙の大いなる意思とか人間が存在する意味とかそんなものは 何もなく、宇宙そのものがなくなるまで地球上か、あるいは宇宙のどこかで 生まれたり滅したりをくり返していく存在ということになる。この宇宙の法則というか 理法というかに従えば人間はただ生まれて生きて死んでいくという存在であって、 まさに誰かが言っていた人生は死ぬまでのヒマつぶしということは的を射ている。 従って「人生はすばらしい価値がある」なんていうのはヒマつぶしを楽しくしようと 考える方便にすぎなく、人間だけが自分の命の終りを自覚しているから、なるべく そこから目をそらそうとしたり、逆にひらきなおって納得する生き方をしたいと 考えて有効に方便を利用しようとしているにすぎない。いずれにしても人生は 大いなる方便ということになる。それは発達した脳がそう考えさせるのであって 他の動植物で生きるのに人間のような方便を使う生きものというのはあまり 聞いたことがない。人生は空しいから生きていくためのよりどころを求めたくなる。 家族も、友だちも大勢の連帯も、信仰の対象もすべては無常な人生を行きぬく ための方便なのだ。人々がいろいろな方便を使って人生を楽しくするのは結構な ことだと思うが、いくら個人の人生が空しいからといって、他人を不幸にするような 方便は願い下げだ。金儲けのために戦争をおこす輩はもはや方便とは言えない。 ただの便だ。 おなら丸 ******************************************************************* 方便。サンスクリット語で「ウパーヤ」ウパーヤとは真理へ「近づく」という意。接近。     到達。手段。  ブッダの場合は喩へ、比喩を多く使用している。  「ウソも方便」は、教団などの経営のために真理ではない虚妄が説かれし歴史多し。  詭弁に近し。  詭弁とは◎他者や自分への説得の手段として命題の証明の際に実際には誤り         である論理展開を用いる推論。        ◎道理に合わないことを強引に正当化すること。(虚偽の論法)  奇弁、危弁とも書かれし とみ新蔵氏提供 *******************************************************************
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民主主義

民主主義=多数決、こういうとそれは違うという反論が必ずある、でも政治の 世界では多数を取れば勝ち、というのはどの政党も思っているから選挙で 多数を議会に送り込みたいのだろう。一票の格差が問題になっているが、 国会内の質問時間だって多数党は長く、少数党は短い、同じ一人の議員 なのに多数党と少数党では差別がある。結局民主主義は多数決だ、本当の 民主主義はそうじゃないという人もいるだろうが少なくとも国会においては 最高の決め方となっている。多数決は独裁的な全体主義よりはましという 程度だ、制度としての民主主義は国民の多数が望まないことを多数党が 決めてしまうこともある。となると全体主義とどこが違うのか、決め方の プロセスが民主的制度にのっとっているといういいわけができるところだけが 違うだけだ、そもそも議員を選ぶ選挙制度にも問題があったり、誰の推薦を 受けたわけでもないのに、立候補して自画自賛をくりかえし、ついでに他候補の 悪口もくりかえし、国民に約束したことは当選したら反古にする。こんな議員に 多数決以外の方法は考えつかないだろう。まあ政治というものはそういうもの だからと言ってしまえばそれまでだが、民主主義が人類の到達した魅力的な 方法だと思ったら、社会の平等や個人の自由の尊重という建て前のもとに資本を 持っている者が弱者を支配する弱肉強食の社会という側面のほうが強調され ている、個人から暴力を奪いとり、権力者が独占的に使用できる。民主主義は 国家間の暴力を否定していないのだ。他人に危害を加える暴力を否定しないで、 どうして民主的などと言えるのだろうか。えらそうにいっているわけですが、 ではどういうふうにすれば民主的な社会は実現できるのだろうか。私の考えは こうです。民主主義は個人を尊重すると言う場合の個人は自分でなく他人、 つまり自分より他人を重んじることである。常に自分より他人が先、何事に おいても他人に先をゆずる。お互いにこう考えれば、相手も自分より他人が先と 考えるので、自分に帰ってくる。自分が他人に危害を加えなければ相手も 返さない、これは自分を守る最良の方法でもある。武器を持たなければ安心 できない臆病者には不向きな方法かも知れないけど、彼らはいつも疑心暗鬼 という魔物にとりつかれて心を病んでいるだけだ。そういう子供にもわかる道理 なのに、行動できないのはどの国も権力者だけというのもおもしろい、何事も 自分の都合を優先するところにすべての争いの原因がある。「他人が先」こそ 民主主義の基本であると思う。学校で子供に教える道徳もただひとつ「他人が先」! これだけでいい。つけ加えるなら他の動植物へ配慮も忘れずにということかな、 人間がいなくなったら動物と植物は住みやすくなるけど他の動植物がなくなれば 人間は生きていけないと先人がおっしゃっている。最近の政府のやり方に怒りの 感情がわいて来たので文章も少し傲慢になっている。ちなみに私は選挙の時の 立候補という方法があまり好きではない、どんなにすごい人でも自分で自分の 良さをアピールするなんてことはみっともないという価値観を持っているためだ、 自画自賛は自分の心の中でうぬぼれればいいのだ。従って選挙は候補者以外の 人が候補者を推薦にして、もし候補者が当選後悪事を働いたら推薦した人も それなりの責任を取ってもらえばいいのではないかと思うのです。政治に関心を 持つということはそういうことではないでしょうか。 おなら丸
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2013年08月28日

北原町アニメ四つ角コラム

「運動不足」  社会人になってから忙しいと運動不足になることを知った。学生の頃は忙しいといえば部活だったからもちろん運動不足どころかへとへとになった。でもその代わりすごく健康的だった。なんてったって学生の本分は部活動だ(あれ、勉強だったっけ?)。大学の時は部活はやっていなかったけど、夏休みと冬休みにずっと工事現場でバイトをしていたから、やはり仕事が忙しければ忙しいほど疲れるけど体は鍛えられた。  しかし社会人になって働き始め、そしてその仕事の本当の忙しさを知ったとき、全く運動という意味で身体を動かす時間が無いことを痛感した。いや厳密に言えばないわけではないが、そういう時間があれば1分でも1秒でも寝ていたいのだ。僕はそれは不健康だと思う(あたりまえだよ)。  僕は運動するのが好きだ。本当はいつも身体を目一杯使って過ごしていたい(この仕事向いてねーな)。僕はどうにかしてこの相克を解きたいと思っているのだけど、何かいい働き方はないものか、これは恐らく世の中の多くの人の悩みではないかと思う。  僕は仕事が忙しいことは決して悪いことではないと思うし、もし自分が没頭できる仕事に出会えたらそれは素敵なことだとも思う。しかし、精神的な疲れのみが蓄積し、肉体は逆になまっていってしまう。果たしてこのような社会が正常だろうか。  現在、ジムに通っている人やジョギングを日課にしている人がいかに多いことか、僕にはそれは、仕事で疲れきった精神とそれによって特に負荷を受けていない肉体とのバランスを保つために、肉体の方も程好く疲れさせるための作業に見えて仕方がない。  僕を含む人々が現在普通に行なっている「運動不足解消」という行為、それ自体がすでに現代社会の問題を露呈しているのではないか。今、労働の本当の姿が問われているのだと思う。  労働とは本来、それを行なうことにより心と精神と肉体を疲れさせる。それと同時に充足感を与えてくれるものなのではないだろうか。その充足感の中には経験の蓄積による智慧の獲得や、それによって明日の鋭気を養うことなどが含まれているのだと思う。今日の僕たちは労働のあり方について今一度、一から見つめなおす必要があるだろう。 四つ角の番人
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