2015年11月25日

暗闇の神

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2015年10月20日

子供にわかる安保法案

平成27年9月19日未明、安全保障関連法案が国会で与党によって強行採決されました。戦後70年間継続されてきた憲法9条を内閣の解釈で変えて、さらにその解釈の変更に対する反対意見には耳をかさず、強行採決をしました。
安倍内閣は改憲をめざし、最初は96条を変えて9条改憲のハードルを下げようとして失敗、それでアプローチ方法を変えて、まず特定秘密保護法とかをつくって外堀を埋め、仕上げに内閣の閣議決定で憲法の解釈を変えるという手に出ました。
この強行採決された安保法案を小学生にわかるように考えてみました。
閣議決定された解釈とはどのようなものなのかわかりやすく言うと安保法案というのは「連れション法案」といえます。例えば憲法9条に立ち小便をするな≠ニ書いてあるのに対し、座ってやればいいのだ、座ってやるのはいけないとは書いてないという解釈です。こういうのを屁理屈というのではないでしょうか。立ち小便するな≠ニいう条文はどう解釈しても=この場所ではオシッコをしてはいけません=
という意味で小便そのものを禁じていることは子供でも理解できます。国民の模範となるべき国会議員は子供以下の理解力というべきでしょう。
ともあれ安倍内閣はこれから座ってオシッコをすることに決めましたが、何故わざわざしゃがんでまでオシッコをしたいのか、それは堂々と世界中で立ち小便をしている米国と一緒に連れションをしたいからです。これから日本は立ち小便をする米国の後ろにくっついて座ってオシッコをしなくてはなりません。これを後方支援といいます。これが「連れション法案」です。問題なのは安倍内閣が米国の後について座りオシッコをする行為を積極的平和主義などと自我自賛していることです。
どうせなら米国の後方支援などと言ってないで、米国にとって変わる堂々と立ち小便したらどうか、その方がよっぽどスッキリすると思うがその根性は持ち合わせていないようです。押し付けられた立ち小便禁止≠変えないなら、押し付けを米国の後方支援に甘んじるのは屈辱ではないのかな。
米国に従属する同盟関係のどこが普通の国なのでしょうか。これは積極的平和主義どころか例えて言うなら強いジャイアンにくっついて行動を共にする「積極的スネ夫主義」というべきもので自主独立の気概が全く感じられません。もしかしたら自虐的内閣?安倍内閣のめざす普通の国は、武力でもって国民の生命と財産を守るということで、武力に対してもっと強い武力で抑止するという考えです。
これほど矛盾している話はありません。そもそも武力と平和は相入れません。世界中の紛争は武力をもって行われていますが、武力では解決できていません、
武力を抑止するのに武力でもってするというのは、貼り紙を禁止するのに“張り紙をするな”という貼り紙をするようなもので、人々の支持を得られないような矛盾にみちたものです。従って、この安保法案は別名『貼紙事態法』ともいうべきものです。
さらに安倍内閣の根本的な考え方は「大阪のおばちゃん思想」だということです。

ずいぶん昔のことなので、記憶ちがいがあるかも知れないのですが、TVで大阪の警官が駐車違反の取り締まりをしているとき、違反したおばちゃんが警察官に向かって「何でうちだけねん、あっちも違反しとるやないけ。あっちも取り締まらんかい」と食ってかかっていました。
もちろん大阪のおばちゃんがすべてこんな人ばかりでないことは言うまでもなく、すばらしい人がたくさんいることも知っています。
番組を観ての比喩的表現で「大阪のおばちゃん思想」とかってに名付けたのです。ごめんなさい。
ようするに、言わんとすることは安倍内閣が、人がやっているから自分もやる、他国が軍隊を持っているから自分も持つ。それが普通の国だ、という考えに支配されているということです。
そう言えばいつだったか、大阪のいちばんえらい人が従軍慰安婦について、どこの国でもやっているというような主旨の発言をしたことがありました。
これもことの是非ではなく、みんなやっているじゃあねぇか!といいたいわけで、おばちゃんの考えと同様です。
駐車違反をした場合、他の違反者のことをどうこう言うより、違反した自分を恥じるべきであって、他人も同じ違反をしているだから自分がやったっていいじゃないか、というのは違反の肯定につながります。平和をめざす国はどうあるべきかなど、人類に対しての理想もなく、所詮人間は違反するものだから要領よく立ち回ったほうが得だ、というようなおおよそ人類の理想とは真逆な思想だということで、憲法9条を持った国をあずかる者としての理念がない。
日本国憲法はその前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」とうたっています。
ここのところが安倍内閣にとって魚の骨のようにノドにつき刺さっているので、憲法に違反してまで閣議決定をして、国会で強行採決をしてでも変えたい根拠となっていることがわかります。
安倍内閣のめざすいわゆる普通の国というのは国益(国民の生命と財産)を守るためには戦争も辞さないという国です。
ちなみに過去70年の間、日本国民の生命と財産は外国との紛争によるものではなく、事故や災害でそこなうことがほとんどであるにもかかわらず、防災はいつも後手後手です。

以上、安倍内閣の安保法案は
@連れション法
A積極的スネオ主義
B貼紙事態法
C大阪のおばちゃん思想
この4点をおさえておけば大学入試はバッチリです。
どこの大学かはわかりませんが、あっ!と法案は可決されるので、案ではなく法となります。
安保法案は安保法となったわけです。入試の引っかけ問題にご注意。
子供にもわかる安保法案でした。


おなら丸
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2015年04月14日

戦後70年

戦争がなぜなくならないのか。
簡単な理由だ。
戦争したい人がいるからだ。
戦争をしないという国禁を破ってまで、戦争したがる人がいるからだ。
誰とは言わないが、日本の総理だ。
信念の固さは大河ドラマの吉田松陰のようだ。長州人は信念の固い人が多いのかな。

パラオを訪問された天皇陛下は、積極的に平和を望んで行動されているが、総理のとなえる積極的平和主義というのは、陛下と真逆の考えのようだ。
総理の好きな戦前の体制ならば、こういう態度を不敬罪というのでは。
いづれにしても、じゃあ戦争したい人はなぜしたいのだろうか。
簡単な事だ。
国益のため、という名目で、資源を奪い合うから戦争が起きるのだ。
そしてこの国益というのが国民の利益と思わされて国民が戦争にかり出される。
パラオの戦闘では、自国民も相手国も現地人も含め、多数の犠牲者を出した。
陛下はこれらのすべての人々を国を問わず鎮魂されているのだ。
先の大戦への深い反省から生まれた、憲法9条の不戦の誓いを実践されているのだ。
本来なら憲法の実践者であるべき総理が、日本国民を代表して行くべきで、それでこそ積極的平和主義ってやつではないのか。

世界の多くの国が持っている軍隊を持って普通の国になりたい、という考えをよく耳にするが、
人が持っていても戦争するという考えは持たなくていい。
その考えを捨てない限り戦争はなくならない。
タバコの吸い殻がポイ捨てされているのを見て、皆がやっているからと自分もやるようなものだ。
積極的にポイ捨てをなくすには、ポイ捨てする人と違った考えの、ポイ捨てをしない、という考えを持つしかないのは子供でも理解できる。

総理の提唱する積極的平和主義が、平和に結びつかない事は子供でもわかる。詭弁というしかない代物だ。
というより、詭弁をろうしてでも国民をあざむき、米国の資源奪い合いに参戦したいのか。
陛下のお心に比べてなんて姑息で滑稽な考えなんだろうか、積極的平和主義って!

おなら丸


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2015年04月07日

小便小僧

4月1日付けのT通信に発行人のTさんの面白いご意見が載っていました。
男の立ち小便、立ったまま小用を足す、いわゆる立ちションについてのご意見です。
それによりますと、最近、女性のように、洋式トイレに腰掛けて小用を足す男性が増えたということらしいのです。
ある調査では男の半数以上との結果も出ているようです。
記事から推察してみるに、洋式トイレで立ち小便すると、小便の飛沫が便器にあたって回りが汚れるので、当然それを掃除する側からはやめてという指示が出てきます。その要求に従ってか屈してかわかりませんが、要求を受け入れた男性が増えたということになりましょうか。
いずれにしましても男性が自ら進んでそうしたのではないと思われます。

何故か。
例えば座って用を足す男性は外の公衆トイレではどうしているのだろうか。
公衆トイレの男子用には大便用の便器は和式、洋式を問わず便器そのものが少ないので、仮に50%もの男性が座って用を足すのだとすると、男子トイレに長蛇の列が出来ても不思議ではないと思うのですが、今のところそんな光景にお目にかかったことはありません。
だとしますと、家で座り小便をしている男は、外では立ち小便をしているということになり、男の本能は公衆トイレで満たされ、
さらに公衆トイレは汚しても家のトイレは汚さなくても済むということになり、掃除をする人(主に奥様か)ともいい関係を維持出来るということになるわけです。
八方丸くおさまる考えではありますが、男としてはダブルスタンダードであるだけでなく、男を捨てた感があるのは否めません。

それはともかくとして、Tさんは男が洋式トイレで立って用を足しても、便器を汚さない方法を解説付きで紹介しています。
それは独りよがりのスタイルではなく、全ての男性に通用する一つの流派と言える方法であります。
さらに男子にとって立ちションは古来より普遍のスタイルであり、男のアイデンティティであると宣言しています。
従って母親が(便器が汚れる)という女性の観点から、息子に座りションを教えることはいけないことで、
逆に正しい立ちションのスタイルこそ教えるべきであるとのべています。
おそらく将来、男のアイデンティティが喪失されるおそれがあるのを憂いておられるのだと思います。
立ちションについては私もTさんとまったく同感です。
立ちションこそが生物としての男に許された自然の姿なのであり、男が座って小用は足すのは非常に不自然な事なのです。
例え時代の要求であってもこれだけはゆずれないという男性は少なくないと思います。

例外的にやむをえず男が座って小用を足すのが許される場合もあります。
大便をするために座ってたら小便が出てしまって、結果的に座りションになってしまった場合とか、
「立ち小便をするな」と看板がある場所などで、尿意を我慢できずに座ってやったという方法を使った時などです。
あっ、それともう一つ。足が不自由な方は座るのが当然なのは言うまでもありません。
これらの場合は例え形は座って用を足したとしても、男を捨てたというような感情は生まれません。

男性と女性の小用装置を生物的な差異でみれば凸か凹かということであり、男は凸であるから立ちションが可能なのだということになります。
若くて元気のいい男など大便と一緒に放尿したら、凸の角度によってヒザまでおろしたズボンを直撃してしまった、などという経験をした男性は相当数いるのではないでしょうか。
そんな場合には凸を人差し指で押して角度の調整をしなくてはなりません。
やむを得ず座らなくてはならない大便の時でさえ、このありさまであります。さらに小用のために座るなどということはまったくの論外とも思われる行為なのであります。

ことほど左様に男にとって座りションは不便で不自然なものなのです。
オス犬が片足をあげて立ちションをするのにも、それなりの自然なワケがあるはずです。
このまま人間の男子が座りションをするようになってしまったら、犬に笑われてしまうかも知れません。

洋式トイレでの立ちション、是か非かというより、要は汚さないで済む技術があれば、立ってやろうが座ってやろうが問題はないわけです。
そして技術は磨けば身に付くものです。
ですから昔の田舎の女性などは、田んぼの中で尿意をもよおしたときなど、女でも実にどうどうと尻をまくって立ちションをしているような、おおらかな光景でありました。
まあ、一応あまり一目につかないようにはしていましたが。
ちなみに私の母親は男用のキンカクシにうしろ向きに立ちションが出来ました。
村のおばあちゃんはほとんどの人がこの技術を会得していました。
しかしこの男顔負けの高度な技術は伝承されることなく姿を消しました。まことに残念の極みであります。

男が何故立ちションにこだわるのかを問題にするよりも、そもそも、男のズボンに何故社会の窓があるのかに注目したいと思います。
あれこそ男が立ちションをするために作られたものであり、男は社会の窓から用を足すことによって、社会への目を開かれて行くのです。
例えば昔の田舎の家など、トイレが母屋から独立して建っていたりします。
子供が夜中にトイレに行きたくなっても、外は真っ暗でお化けが出るかもしれません。
外のトイレまで行って用を足して、無事に帰ってこられる保証はありません。
そんなときは母屋の雨戸を少しあけて、そこから外の暗闇に向かって放尿するのです。
真冬なんか朝にその跡が凍っていたりして、まさに芸術的である
そんなふうにして外の危険を回避して用を足せるのも、男に立ちションできる機能が備わっているからであります。
従って男たるもの幼少から、その機能を有効利用するべく技術を磨かなければなりません。

私の知り合いにそれを怠ったまま大人になった男がいます。
彼は立ちションをするときズボンを足首までおろして、用を足すのです。
幼少の頃、社会の窓から凸の出し入れがうまく出来なかったので、母親がズボンを足首までおろして用を足すことを教えたら、それがクセになってしまったのです。
これでは社会への目が開かれません。
ある時、用を足していてちょっとバランスをくずし、足の自由がきかないので人前でコケてしまったことがありました。
いくら立ちションをするとしても正しい方法と姿勢なくしては完璧な立ちションはできません。

立ちションについてゴタクを並べてきましたが、最後にひとつ指摘しておかねばならないことがあります。
それは便器屋さんについてのことです。
家庭に洋式トイレを普及させるのはかまわないのですが、どうして大小共用にするのか。
もちろん住宅事情というのが大きな問題ではありますが、本来放尿する装置が凸凹で違うので、凸の高い位置で凹は用を足せないが、凹の位置には凸もあわせることができます。
それが座りションだとすると、もともと便器の都合で座りションが普及したことになります。
つまり、人間の都合に便器があわせるのではなく、
便器の都合に人間が合わせるということになるわけです。こういうのを本末転倒というのではないでしょうか。
ついでにいうと、なぜ飛沫が飛ばないような便器は開発されないのでしょうか。
水のたっぷり貯まっている洋式トイレに階上の社会の窓から放尿したら、飛沫が飛ぶのは火を見るより明らかです。
仮に立ちションの流派に属しているような強者でも、時には酔っぱらったりしていたら、中央の水たまりの縁をちょっとはずしたりして、心ならずとも飛沫を飛ばしてしまうことだってあるでしょう。
そんなとき飛沫を心配せずに楽に用を足せたらこんなに素晴らしいことはありません。

お湯を出したり熱風を出したり衛生的な装置の開発に余念のない便器屋さんが、飛沫を防ぐ工夫ぐらいはすぐできるように思えるのですが、もしそれが発明されたなら、トイレのカレンダーをみつをからしゅうぞうに変えてもいいと思っています。
飛沫、飛沫と瑣末なことにこだわるなとお叱りを受けそうですが、飛沫は何もトイレに限ったことではありません。
人と人とが顔を突き合わせてしゃべっているときだって、細かい唾液の飛沫が飛んでいます。
よく話しながら食事をしているときに、自分の口からかんでいる食物のカスがお話し相手に向かって飛んでしまった人も人も少なからずいるでしょう。
トイレの汚れはふけばいいが、口からの飛沫はもしウィルスがいれば直に相手を危険にさらすことになります。
放射線などは見えないから、汚染されていてもわからない。立ちションの飛沫など比較にならないほどです。
原発はトイレのないマンションといわれるように、汚染されたら防ぎようがありません。

原発の汚染は平気で、自分の家のトイレの汚れだけが気になるのだとしたら、木を見て森を見ずってやつかも知れませんし、いずれにしてもトイレの飛沫なんて、男のアイデンティティを放棄してまで気にする程のものではないと思いますがいかがでしょう。
なんて、飛沫の事を書いている私のヒマつぶしにお付き合いいただいてすみませんでした。

この辺で・・・。

飛沫武士 おなら丸


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2015年02月27日

趣味について

お久しぶりです〜ウワガワです。
突然ですが、皆さんには趣味はありますでしょうか?
映画、音楽、ものづくり、ガーデニング、旅行・・・どれも素敵な趣味ですね。

僕の趣味はプラモデルです。
パーツを組み立てて、動かして遊んで、想像をふくらませ、
色を塗ったり改造したり・・・同じキットでも、十人十色の完成品がある。そんなところが好きです。

業界人として、人を楽しませる側でなくてはならない自分が言うのもおかしな話ですが、趣味は大事だと思います。
趣味は、「おもむき」に「あじ」と書きます。
自分の好きなことを、自分のペースで、こだわりを持ってやる・・・
その中で、自分の感受性を広げ、「おもむき」や「あじ」を感じ、あるいは生み出す。
人生を豊かにする、とても重要なものだと思います。

趣味は自分の世界です。
端からみれば、とるにたらない、くだらない事に思えるかもしれません。
けれどその人が、その人の人生の中で、その人だけが積み重ねてきた想いがあります。
あるいは、同好の志と語り合い、共有した想いもあります。
それこそが、人生の彩りであり、救いであり、明日への活力になっていくと、僕は思っています。

人の価値観は十人十色。プラモデルも十人十色(←おいおい。)
そのどれもに、その人のこだわりや思い出があり、その人だけの聖域なのです。
例えくだらなく見えても、他人には決して侵せない領域なのです。
閉鎖的な考えかもしれませんが、人にはそういう部分も必要だと思います。

エンターテイメントの業界人として、たくさんの人にそういう時間を提供していきたいな、と、思っております。

ウワガワ





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2014年06月26日

「一番いじめるやつ」

「勉強ができない、ケンカも弱い、お金持ちのせがれが一番いじめられる」
と、麻生総理が言ったらしい。集団的自衛権行使の必要性を訴える比喩らしいが、アメリカは強い、中国はいじめっ子、お金持ちだけで弱い日本はいじめられないようにアメリカの子分になろうというおすすめか。

どの程度のお金持ちを「金持ち」というのかわからないが、半世紀も前、ワシが小学生の頃、お金持ちの代議士のせがれがいた。
体は小さかったがお金持ちなので、子供用の自転車やぜいたくなオモチャなど、当時一般家庭の子供は手に入らないようなものをたくさん持っていた。
彼はその珍しい高価なオモチャをちらつかせては、自分に従う友達をどんどん増やしていって、とうとう朝の登校時には子供たちはみんな彼の家の前で待機して、いっしょに登校にするようになった。まるで大名行列のように集団で登校するのである。今の集団登校とは意味が違う。
そんな状態だから、その集団に加わらない者はいじめの対象になり、彼は手を出さず、子分のようなとりまきがいじめをして従わせるのである。
このお金持ちのせがれは長じて親の地盤を継いで代議士になったが、その後身内がからんだ土地不正取得かなんかやらかして一度議員をやめたと聞いたが、今はどうしているかわからない。

集団的自衛権の行使容認に積極的な安倍総理も代々政治家の家庭に育ったお金持ちのおぼっちゃまだから、自分個人の能力以上の力が働いて総理まで登りつめることができたことは否定できないだろう。
戦争できるふつうの国という考え方も、相手がいじめるからいじめ返すという発想は、いじめる人と同じレベルであっていじめを肯定していることに他ならず、それではいじめそのものをなくそうということにはならない。
まして安倍総理は自らが体をはって戦地で戦うわけではなく、やれ!と命令するだけである。麻生総理も代々政治家のお金持ちだ。もしかして「勉強できなくてケンカも弱いお金持ちのせがれ」って自身のこと?
勉強できなかったというのは何となくわかります。
でもいいじゃないですか。勉強できなくたって東大に入れなくたって、漢字が読めなくたって総理になれるってことを子供たちにお手本として教えることができたんですから。

おなら丸

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2014年06月23日

【ウワガワのアニメ世代コラム】♯1 目指せ反面教師

生まれは松山、学びは神戸。
やってきました江戸の西。ウワガワでございます。
この春からエクラアニマルに仲間入りしました新入りです。どうぞよろしく。

早速で不躾ではございますが、自分語りをばひとつ。

先日、DVDレンタルショップでのことだ。
小学校低学年くらいであろう、小さな男の子が、店内に貼ってあった人気深夜アニメのポスターを見て言った。
「あ!○○(キャラの名前)だ!」
親がその隣のキャラを指さし「こっちは?」と聞くと、名前が出てくる。その隣の、別の深夜アニメのポスターを指さして聞くと、そのタイトルも出てくる。さらに、そのポスターに描かれた美少女キャラを指して「どれが一番可愛い?」と聞くと「うーん、この子かな」と言う。
僕はぎょっとした。今時の子供は、深夜アニメなんぞを観ているのか。親はどういう教育をしてるんだ。そんなものを観て育った子供はいったいどうなるんだ・・・。などと、ちょっと危ない人のようにぶつぶつと呟きながら帰路につき、自分が借りたDVDを見てハッとした。アニメのDVDだった。

「ああそうか、俺みたいになるのか…。」

僕は、アニメとゲームで育ったと言って過言ではない。
僕が幼いころ、僕の両親はケーブルテレビと契約し、我が家にアニメ専門チャンネルを導入した。24時間、アニメしかやっていない(むろんその中には深夜アニメも多分に含まれる)、冗談みたいなチャンネルである。僕は狂喜乱舞してそのチャンネルの視聴率に貢献した。それはもう、他のチャンネルには目もくれぬ勢いである。さらに、我が家には贅沢にもテレビが3台あり、親兄弟がリビングでテレビを見ていようが、僕は気兼ねなく別間でテレビゲームに興じることができた。やがてインターネットに接続されたパソコンもやってきて、在りし日の僕の脳ミソは漫画と電子に支配されていった。

気がつけば僕は、20過ぎにもなってアニメばかり観ている。
ワールドカップに日本中が熱中している今、その話題にもついていけず、会社の先輩には呆れられるばかりである。スポーツだけではない。映画、芸能、政治、経済、歴史、一般常識・・・あらゆることに関して僕は無知すぎる。僕にイマイチ忍耐力が無いのは、アニメとゲームの快楽に浸りすぎたせいだと思う。就職して上京した僕は今、違う世代の人たち、人生の先輩達と出会い、あまりの己の不勉強さを猛烈に痛感している真っ最中である。

昨今、インターネット等の普及で、情報がうんと手に入りやすくなった。
それに伴い、欲しい情報を、欲しい部分だけ得ることができるようになった。得る情報を自らが選択できる時代になった。その結果、僕の世代は、自分の興味のある分野に対してはより追求する反面、広い分野にわたって知識を得る人は、減少の傾向にあるかもしれない。

僕を洗脳した専門チャンネルなどはいい例だろう。もし僕が普通のチャンネルを観て育っていたら、今の僕ももう少し違っているかもしれない。

なんだか、こんな風に書くと、まるで僕がどうしようもないダメ人間で、アニメは人間を堕落させる諸悪の根源のように思えてきて目から汗が出てきたが、続けよう。

僕は自分が環境の犠牲者だとは思っていない。情報を選択したのは自分自身だし、それに、アニメで育ったことを決して後悔はしていない。
10代のうちに出会ってよかったと思える素晴らしい作品にも多く巡り会えたし、アニメを通じ、尊敬できる人々にもたくさん出会った。なにより、アニメを好きにならなければ、僕は今こうしてこの業界にもいなかっただろう。アニメを観て育ったからこそ、アニメの持つ可能性を知った。そして今、ときに危険とも言えるアニメの影響力を身をもって感じることができた。

だからこそ、「子供たちに本当に見せたいアニメを手づくりで、心をこめて作りたい」というエクラアニマルの想いに惹かれた。アニメの氾濫する渦中で育った自分だからこそ、考えられる事があると思っている。

そのためにも、今まで知ろうとしてこなかったことを、知る必要がある。
子供にものを届ける立場の人間として、これではいかん。
アニメに洗脳されてしまった世代の一人として、いつか「立派な反面教師」になるべく、修行の日々を続けよう。

稚拙なうえに長くなってしまって失礼しました。
どうか、生暖かく見守ってください。(ウワガワ)

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2014年03月23日

<自己嫌悪>

雨には弱い 風にも弱い 雪にも夏の暑さにも弱い 丈夫な体は持ってるけど 慾もいっぱい 自慢ばかり いつもうるさくしゃべっている 毎日食いきれない量の 肉や魚や野菜を食べ酒も飲み あらゆることに まず自分を優先し うわべだけ理解して 忘れっぽい 緑あふれる景勝地の コンクリート建ての豪邸に住み 東に病気の子供がいても 見くだすだけで看病はせず 西に疲れた母がいても 行って手伝おうとはせず 南に死にそうな人がいても 関係ないから無視をして 北に喧嘩や訴訟があれば おもしろいからもっとあおり 人のためには涙も流さず 己のためには人もだます みんなからもてはやされ 大いにほめられ あこがれられる そういうものに 私はなった おなら丸
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2014年03月10日

ゆとり教育

もう半世紀近く前のことだが私が高校生のとき、S先生という数学の教師がいた。 ちなみに県立の農業高校である。午前中の授業が始まるときは決まって 出席簿を見て遅刻した生徒がいると前に立たせ、黒板に数式の問題を 書いて生徒に解かせる。解けない生徒からは弁当をぼっしゅうしてしまうので 昼までに問題を解いて職員室へ持って行かないと弁当を返してもらえない。 先生曰く、「遅刻して問題も解けないようでは母ちゃんに申し訳ないべ」という 分けだ。もちろん先生に食べたれたら昼メシぬきになってしまうのでクラスの 秀才に頼んで解いてもらってあわてて持って行くと弁当はすでに先生の腹の中、 「お前の母ちゃんの弁当はうまかったと家に帰ったら報告しとけ」と言うので 母親に報告すると「やだ、先生が食うんだったらもっとちゃんとしたおかずに すればよかった」なんて先生のほうに気を使う始末だ。教師がまだ絶対の 信頼があった時代だ。この先生はとにかく変った先生でテストも独特な ものだった。答案用紙の上部に2体の動物の絵が並んで描かれている。 犬と猿とか猫と鼠いった具合に、その2体の動物の間に生徒の名前を 書かせるのだ。生徒はまるで幼児扱い、期末テストのときは馬と鹿が 描いてあったりする。絵の他には問題、次の因数分解を解けなんて書いて あるだけであとは白紙である。肝心の数式はない、用紙を配り終わった 段階で先生が黒板に問題を書き、それを各自、用紙に書き移させて 答案用紙の完成である。いつもこのパターンだ。先生曰く印刷の手間を はぶくのと、まだ問題を考えてなかったというのである。当時はガリ版印刷 といって油紙のようなものに鉄筆でキズをつけて1枚1枚手でローラーを ころがして印刷するのであるからたいへんだったろう。しかし問題を事前に 考えてないというのはいくらなんでもスゴすぎる。先生は自分の机の上に なにやらチョークで計算式のような、ラク書きのようなものを書いている 2〜3分したところで前述のように黒板に因数分解の数式を書くのである。 そしてさらにおどろくべきことに問題はこの一問だけ、ごくたまに2問のときも あるが、普通は1問だけ。先生いわく、100点と0点しかないからあとで採点が 楽だということらしい。そしてたいていの場合、100点とるのはクラスに1人か2人、 あとは0点の山だ1クラス54人いたので0点率は実に96%の高率だ。0点率が 多数派だ、そうなると100点とるやつのほうが逆に頭の変なやつみたいな 風潮になってくるので0点をなげくやつは誰もいない。生徒も先生も大笑いして 盛り上がっている。実にのどかなものだった。正解者が少ないのはつまり、 問題がむずかしくよほど数学が好きでないとまず解けない。ということが大きい。 期末テストなので0点のものは当然追試験ということになる。この追試というのが またまた型やぶりで、校内のマラソン大会で生徒と一緒に走る先生より早い 着順の者は合格ということだけど先生がなかなか健脚で多くの者が不合格 となり、再追試ということになる。さすがに今度は計算問題なのだけどこれが 3ケタの加減乗除の計算であったりする。それでもたまにまちがえる現役の 高校生もいたのだ。すると先生は単位が欲しかったら「父ちゃんと二人で一升 下げて来い」というのが口癖で、しかたなく親子で酒を持って先生の家へ行くと、 生徒の進路の相談に乗ってくれる、という具合である。これは後にわかったこと であるが、先生がほとんどの者が解けそうもないむずかしい数式の問題を 解かせようとしたのは、そういう学問が好きで、またそういう道に進みたい者向け だったのだ。多くが農業後継者なので0点が多くてもさしつかえない。追試の マラソンは生徒の別な面を引き出そうとしたことであり、三ケタの計算は大人に なって最低限必要なことであり、酒一升は先生と親子の対話の場をつくること だったのである。実際この先生は秀才の誉れ高い人であった、回りからは頭が 良すぎておかしくなった人というような評価もあったが、自分を振り返ってみると 当時学んだこともそれと別の仕事についたことによって、使う機械もないまま ほとんど忘れてしまったが3ケタの計算は今でもできるそしてまさに酒一升は 百薬の長であった。おかげで二升ぐらいは飲めるようになった。ワシの追試は 逃げ足の速さを生かしマラソンの段階で切りぬけた。おかげでいい職業に つくことができた。 おなら丸
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2014年02月05日

北原町アニメ四つ角コラム

「足りないもの」  何もないところから何かを造り出すことはやはり容易なことではない。だが、元々あるものに何かを付け加えたり、またはそれを分析したりすることはそう難しいことではない。たぶん多くの人が後者の方が得意なのではないだろうか。僕もまた、そんないちゃモンを付けるのが得意な一人だ。  何もないところから何かを生み出す、創造することが得意な人は、果たしてそうではない人とどこが違うのだろう。第一印象だとそういう人たちというのは自分を持っているというか、自身の中での考え方が出来ている、そんな印象を受ける。その考え方が正しい正しくない、善い悪いではなくて、その人自身の中ではもう想いが構築されていて、基本的にどんな事態に遭遇したときにも、自らの想いから同じスタンスで対処する。  しかし、多くの人々はそうではないのではないか、その事柄や場所、人物などによって対応を変える、まあそれは平たく言えば処世術なのだけど。だから芸術家や作家と呼ばれるような人は偏屈だったり頑固だったりするのかもしれない、まあ生き方が不器用な印象はある。それが何を意味するのか、恐らくは人間社会の枠や常識といったものから(精神的に)逸脱していることが多いためではないかと思う。  つまりどういうことかというと、そうではない人たちよりも本能に準じた生き方をしているのだろう。だから彼らには先立つものがあって、尚且つそれは根源的なものなのだ。それは彼らの性格や人間性に表れていて、その善し悪しは置いといて、非常に純粋性が高く偽りが少ない。だから先にも触れたように行動がはっきりしている、大変主体性があり多分に能動的である。  それと比べると僕らは主体性がなく、いつも受け身でいることが多い。だから何かを創造しようと思っても、まず何から始めればいいのかさえ戸惑ってしまう有り様だ。最初にテーマを決めるのか、制作に必要なものを用意するのか、それともとりあえずつくりはじめてみるのか、何もしない前から迷ってしまっている。そう、恐らくは「衝動」が足りないのだ。何かに突き動かされるようにモノゴトを制作するための「衝動」が。  ではその「衝動」をどうやって手に入れるのか、たぶんそれは手に入れるといった類のものではなく、あるとき己の内から湧き起こって来るようなものであるに違いない。だがそれがいつになるのかは皆目見当もつかない。というよりもそんな日が本当にやってくるのだろうか、こんな他人任せのようなことではきっと「衝動」はやっては来ない。  僕に足りないものは一体なんだろう。まあたくさんあるんだけど、大事なことはもっと単純で簡潔なはずだ。それは一体なんだ。頭の隅ではわかっているような気もするが、今の僕はそれを認識しようとしていない。なぜだろう、甘えや逃げの所為だろうか、それもあるだろう。しかしもっと根本的な問題ですぐに気が付くと思うんだけど、結局わからず仕舞いだ。それならわかるまで精進を重ねるしかない。  一般論で書き始めたはずが、いつの間にかモノをつくれないことに対する言い訳になってしまった。なんて情けない、トホホ。 四つ角の番人
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posted by アニメ制作会社エクラアニマル at 13:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | コラム