2019年03月12日

正義の味方

先日、アンパンマンの原作者、やなせたかし先生の生誕100年を記念して創設された第1回「やなせたかし文化賞」という栄えある賞を頂いた。その授賞式がやなせ先生のゆかりの地、高知県香美市で行われたので行ってきた。広く子供の為の活動をしている団体ということで、街のゴミ拾いや市民活動を評価して頂いたのがとても嬉しくありがたいことだ。考えてみればやなせたかし先生のアンパンマンは身を投げうって他人を助けるという利他の行為であり、いわば無償の愛とも言うべきで他人が喜ぶことをする、それこそ本当の正義の行為だ。
ワシは幼少の頃、正義感や他人への思いやりなどは漫画から学んだ。考えてみれば「鉄腕アトム」の登場から60年以上経過したが、この間漫画やドラマにはおびただしい数の正義のヒーローが登場した。しかしそれを見て育ったはずの我々大人が作った現在の社会には果たして正義や思いやりは満ち満ちているだろうか。お世辞にもそうとは思えない。むしろ逆で社会の指導的な立場である人々の劣化は目を覆うばかりだ。政治家は嘘、隠蔽、大企業をもごまかし、大学は不正行為、さらに親が子供を虐待するなど、とても子供の模範になるような大人ではない。これでは漫画で学んだ正義感などは単なる絵空事になってしまう。やはり漫画で子供に正義を教えるだけでなく、大人は正義の行為を実践しなければ子供に対して説得がない。悪をパンチでやっつけるわけではない。エクラアニマルではとりあえず人々に喜んでもらえるように街をきれいにしよううってことで、ゴミ拾いを会社のスタッフ全員でやり始めた。(すでに10年を超えた)
すると、色んな人たちから「ありがとう」「ご苦労様」などと感謝や励ましの声がかかる。これだ!人が喜ぶことをやるのが正義だ。アンパンマンの無償の行為だ。
私たちはこういう行為をすることを「やなせイズム」と密かに呼んでいる。(やなせ先生、勝手に名付けてすみません)と同時にこの行為をする精神を「どういたしましての心」と呼んでいる。それは、どういたしましてと言うには資格がいる。人から「ありがとう」と言われなければ返せない言葉だ。何年も言い続けてきた言葉だけど、今回頂いた賞を励みにさらに多くの人にありがとうと喜んでもらえる活動をしていきたい。
本当に人々の喜び合う平和な社会が訪れるまで。

おなら丸

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2018年05月24日

お金の使い方指南

 この社会はお金を儲けることが最も良い目標のようになっている。だから本屋さんの店頭にお金の儲け方を指南する本はたくさん出ているが、お金の使い方を指南する本は一冊も見たことがない。
 大企業のお金持ちのあくなき利益追従やお金儲け社会を動かす政治家の不祥事を見るたびに思うことがある。お金持ちをうらやましいと思っている多くの人や、ワシのような貧乏人はちょっと溜飲をさげたりすることもあるのだが、自分がいつも感じていることは、お金儲けの好きな人々はいったいどこまでお金を儲ければ気が済むのだろうかということだ。果てしないのだとすればそれはもう薬物依存症のようなもので、病気というしかない。もし、病気だとするなら医者の治療を受ける必要がある。世界の不幸はこの依存症の患者が治療もせずに、いやそれどころか依存症の患者が自ら医者となって社会をリードしていることだ。お金になれば自分の一族や自分の遺伝子をつなぐ孫の存在に有利な条件となるし、そのお金で多くの人々のための有意義な事業ができるし、社会の中心で活躍することもできる。(やるかどうかは別として) 社会の支配層にもなることができるし、人々の尊敬も集められる。
 だからずぅっとこの儲け続けられる状態を作っていきたい。あるお金持ちの友人がワシに「金持ちが何を考えているか教えてあげようか」と言われたことがある。「うん、おしえて。」というと、「金持ちはね、いつも次の投資先を考えているんだよ」と帰ってきた。
ある意味、もの作りの人のようだ。 “常に次回作を考える” なるほど常にお金を儲けることを考えているわけか。ワシは思い違いをしていた。お金持ちになったらぜいたくして楽しようと思っているのかと思った。そう考えるのはお金を儲けたことのない者だけということが分かった。
 しかし人間にはだれでも避けて通れない問題がある。それは生身の動物だということだ。飯を食ったり、ウンコをしたりしてやがて死んでしまう存在だ。お金を持っていようがいまいがみんな死んでいく、だから依存症の方々は自分の寿命をのばすためにあらゆることにお金をかける。細胞を冷凍保存して再びクローンとして生まれるとか、体をサイボーグにするとか科学の発展によって寿命を延ばすのに期待するとか、いろいろあるらしい。しかし、細胞を培養しようがどうしようがそれはもうすでに本人と呼ぶには無理がある。こういう考えもやはりあくなき利潤を追求する脳と同様なのだろう。結果自分が自分でなくなるならせめて優秀な自分のDNAを残そうと考えるようになるのも頷ける。
 百歩譲って、個人が努力の末、財をなしたこと自体は賞賛すべき部分もあろう。問題なのは大きな企業なり投資家になると、さらに自らの利益を増やすべく国の政治家を動かし、庶民の税金を自分達のために使い、自分は税金を払うのを拒み、利益を懐へ入れる。まさにルール破り。自らの考えで都合よくルールを解釈し、庶民をごまかし、表面ではいい顔をする。貨幣社会においては禁止薬物のように末端価格がどんどん高まるものもあるが、労働力の対価は逆にどんどん安くなっている。我々が毎日手に入れている衣食を生産している東南アジアのある国の人の手間賃は1日で日本円の数十円の人もいるという。そこで働く人たちの労働力には価値がないのか、その人達が作り出した生産物は労賃よりはるかに高い値段で取引されているではないか、フェアトレードなんて言葉もあるがアンフェアなトレードで取引されているならそれは昔の封建時代と同じく、一生懸命働いている庶民の財産を盗んでいるのと変わりないことにならないか?法律的に合法だから何をやってもいいという理屈なのだろう。政治家も国民の生命財産を守るとか言っておきながら実は裏で真逆のことをやっている。国民の財産でなく大企業とお金持ちの財産を守りたいのだろう。最も彼らも国民には違いないけど、タックスヘイブン(租税回避地)というのに多くのお金持ちが関わっていたり、兵器産業に投資していることを見ればよくわかる。どこの国でも指導者と言われる人はみんな同じことをやっている。まさにグローバル経済の時代だ。国と国はいがみ合っているように見えて実は同じ穴のムジナなのだ。どこの国の国民も騙されてはいけない。自分の生命と財産が危ないのは他国によってではなく自国の指導者によってであると、お金儲けをしたい人たちにとって問題なのは地球の資源が有限であるということだろう。そこでより多くの資源を手に入れたいそうしないと自分の利益にならない。だから国民を騙して戦争に駆り出しても自衛という名目で資源の奪い合いをやりたいのだ。土を耕し作物を作り、狩りをして食料とする獲物を手に入れる、こうした生身の人間の生命活動にかかせない仕事をする人からお金でもって収穫物を奪っているとも言えるような行為が合法だということで買っているということになっている。どんなに安く買いたたいても問題にはならない。人々が助け合う人間社会では分業でそれぞれが役割を担い、お金を仲介にして取引が成り立っているのだから、それ自体はなんら問題はない。問題はその仲介をするお金への依存症になってしまった人々の治療法が見つからないことである。隔離病棟も、ワクチンもない伝染病の蔓延状態だ。しかも自ら進んで依存症になろうとする人が後を絶たない。薬物依存症の人は治療を受けても再発率が高いという。麻薬は蔓延したら困る薬物だが金銭欲ほどには蔓延しない。特効薬のない依存症はいったいどうなるのか?神は自分に似せて人間を作った。そして人間によって否定された。人間もまた自分に似せてロボットを作った。やがてロボットによって否定されるだろう。そこまでして人間は何をしたいのだろう。それとも一度走り始めると止められないのが人間の脳だというのか?仮にそうだとしてもお金儲けの他に人間の脳を使う道はないのか。高等動物といわれる人間には自我がある。この自我ってやつが自己中心的な行動を引き起こす。この自分勝手は将来どういう生き方を見つけるんだろう。人間が人間を生み出すためには男女の恋愛から子供の誕生まで長い時間を要する。しかも、生まれた子供を一人前に育てるのにさらに時間がかかる。だから暇つぶしに文化が必要なのだ。だから文化を否定するのは人間の否定につながる。人間が人間を生み出すのには斯様に時間がかかる。人間よりはるかに下等とされるアメーバは2つに分裂すればそのまま同じ個体を生み出す。一体どちらがすごいのか。少子化対策から言えばアメーバのほうが優れているのは間違いない。
 お金持ちがどんなにお金を貯めても死んでいく本人にとってそのお金は無意味なものだ。しかし、あとに残る人にとってはとても意味がある。ここはひとつ、もうけたお金を未来の子孫へ託してはどうか。その場合も自分の子孫にのみ相続させるという矮小な世界観は争いを生み出す元にもなりかねない。そこで地球に生まれ地球の土になる。生きるも死ぬも地球に抱かれて次世代へつなぐ。こう考えれば生きている時の自分の生きざまの結果が後世の人々の役に立つという喜びに打ち震えること疑いなしだ。世の中のお金持ち過ぎの皆様ぜひご一考を!ただし、あの世の存在を信じ、“地獄の沙汰も金次第”と考えてる向きにはご理解頂けない提案かもしれません。
                              
おなら丸

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2018年05月22日

自己満足をしたい生き物

2017年の夏、トイレから出たワシはあるトラウマに襲われた。手水鉢で手を洗おうと蛇口をひねったとき、排水口の近くにクモがいることに気づいた。その時、自分の脳裏に浮かんだのは芥川龍之介の『蜘蛛の糸』というお話である。
極悪非道のある男が、一度だけ蜘蛛を助けたことがあり、死んでから生前の悪行によって地獄で囚人となり、ほかの囚人たちと血の池地獄であえいでいた。そこへ、お釈迦様が生前にクモを助けた優しい心に免じて男を血の池から救ってやろうと上から蜘蛛の糸を男のもとへとたらした。男は夢中で糸を上り始めるが、下を見るとあとからあとからほかの囚人たちが登ってくる。このままでは糸が切れてしまうと思い、男は「これは俺の糸だ。みんな降りろ!」とエゴをむき出しにして怒鳴った。するとプツンと糸が切れて男は血の池へ落ちてしまったというようなお話だったと記憶しているが、お釈迦様はエゴにまみれていた男の心が変わってないので救うのをやめてしまったのではと思ったワシは自分ならそんな失敗をしないと思い込んで育った。悪いことをしたら地獄に落ちてしまう。そのためにはいいことをするしかない。仮に地獄へ落ちても蜘蛛を助けておけばお釈迦様が必ず救ってくれる。こういう図式が幼いワシの心に刻みこまれた。そして、いま、蜘蛛を助けなければいけない状況が目の前にある。ワシは蜘蛛が排水口に落ちないようにそっと蛇口を閉め、水を止めた。その時である、水を止めたにも関わらず蜘蛛はポロっと排水口に落ちてしまった。「あーっ!これで俺の蜘蛛の糸はなくなってしまった。」と思ったらそれから一週間ほどしてクモ膜下出血で倒れてしまった。
 そこは全くの無だった。うっすらと夢をみていたような記憶もすこしあるがなんか重苦しい感じのものだったような気がする。その間自分の脳は全く機能してないのだからいわゆる脳死のような状態だったのではあるまいかと思う。よく言われる臨死体験のようなこともなかった。もしこれが脳以外の病気だったらいっぱい夢を見たかもしれないが脳の機能が停止しているのだから夢も見ない。ということはあの世も霊魂も認識できないのだから自分にとってはそれらは存在しなかったということになる。「我思う故に我ありだ」我が思わないのだから我もない。つまり、あのまま死んでしまえば自分にとってあの世はないことになる。生物的には心臓は動いているのだから死んだわけではないが意識が戻らずそのまま死んでしまえばあの世に行ったのではなく無の状態になったと理解するしかない。どのくらい時がたったのか。自分の意識が戻った時、最初に目に飛び込んできたのはきれいな女性たちだった。天使と見紛うような美人ばっかりだったので驚いて起き上がろうとしたが体が動かない。やがてそこが病院の集中治療室で自分が無意識なのにやたらと暴れるので看護師さんにベッドに手足を縛りつけられていたらしい。ということがわかり意識が完全に戻ったのである。
 この体験から自分なりの想像をしてみると、自分にとって天国も地獄もいわゆるあの世は存在しなかったということである。つまり、人間死んだら肉体も霊魂も存在しない無になってしまうということだ。悪霊とかたたりとかいうのは人間の脳が作り出す思い込みではないかということである。独断と偏見を承知でついでに言えば、宗教というのも人間が現世を楽に生きるためのモチベーションとするべく思い込んだ大いなる思い込みの産物ではないかと思える。厳しい社会を生き抜くために人は心によりどころを持ちたいと思う。それは信仰と呼ばれるものかもしれない。個人個人にとってそれはとても大事なものにちがいない。しかし、これはずっと前から思っていることなのだが、人生に意味などない。人生は死ぬまでの暇つぶし、生まれて飯を食ってウンコして死んでいくという存在でしかないということをワシはこの体験から改めて実感した。
人は死を恐れる。おそらくそれは、脳を発達させた人間が、自分は必ず死んでしまう存在であるということを自覚する動物だからではないかと思う。往生際の悪さもそのことが原因なのかもしれない。明日の死を自覚することがないワシのペットのうさぎなどじっとしているときのたたずまいは生死など超越したと思えるような神々しい表情をしている。確かに人は死んでしまう存在ではあるけど煩悩を持っているので人生でやりとげたい夢や様々な欲望を持つ。なるべく死を遠ざけたいとかせっかく生まれたんだから何か残したいとか要するに生きることに意味を見つけたい、と思うようになる。つまり暇つぶしのやり方が様々な価値観を生み出す。座して死を待つには時間が長いし、かといってすぐ死ぬのは嫌だし、おまけに生身を維持するためには何か食わなければならないし、食ったら排泄しなければならないし、自分の本能を満たすだけでも一人では難しい。生んでくれた親や生きる社会とかかわりなく生きることはできない。他人の力を借りなければ自分を維持することもできない存在なのだから、人間互いに人のために何かできることをやるのは当たり前なことだ、しかし社会の教育は自分のためにやれと教えることが多い。「他人に迷惑をかけなければ何をやってもいい。」と教えるのではなく、「人は他人に迷惑をかける存在だからやってはいけないことはやってはいけない。」と教えるほうがいいと思う。そしていつも自分より先に他人という考え方、自分ファーストではなく、他人ファースト(ファーストといえばワシの子供のころはジャイアンツの王さんのことだったのだが・・・。)
他人が先、互いにこういう相手を慮る考え方を心がけ信頼関係を築いていけば争いをなくしていけるのではないだろうか。いずれにしても人は何故、人生の意味を見出そうとするのか?ほとんどの人が自分の人生について語るとき、多くの人は自分が死ぬときにいい人生だったと思える生き方ができたら最高と思っているようだ。つまり、人はお金持ちでも、悪人でも、平凡な人でも振り返っていい人生だったと満足できるような生き方を望んでいるということになる。実際に自分が満足できる人生を送りたいと思っているという話はよく聞く。ということはつまり、人の人生は自己満足であるということができる。
 人には様々な生き方があるように様々な自己満足がある。お金儲けで自己満足を感じる人、政治家になって世界を動かすことが自己満足な人、スポーツの頂点を極めることに自己満足する人、悪事をなすことに自己満足する人、困っている人を助ける行為に自己満足する人。究極、人生は自己満足と結論づけることができる、とすれば、できれば多くの人が他人に害をなさず、世のため人のためになるような行動に自己満足を覚えるようになれば、つまり日本国憲法の前文のような自己満足をめざしたら、世の中はきっといい方向に変わるに違いないと思われる。
                                             
おなら丸

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2015年11月25日

暗闇の神

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2015年10月20日

子供にわかる安保法案

平成27年9月19日未明、安全保障関連法案が国会で与党によって強行採決されました。戦後70年間継続されてきた憲法9条を内閣の解釈で変えて、さらにその解釈の変更に対する反対意見には耳をかさず、強行採決をしました。
安倍内閣は改憲をめざし、最初は96条を変えて9条改憲のハードルを下げようとして失敗、それでアプローチ方法を変えて、まず特定秘密保護法とかをつくって外堀を埋め、仕上げに内閣の閣議決定で憲法の解釈を変えるという手に出ました。
この強行採決された安保法案を小学生にわかるように考えてみました。
閣議決定された解釈とはどのようなものなのかわかりやすく言うと安保法案というのは「連れション法案」といえます。例えば憲法9条に立ち小便をするな≠ニ書いてあるのに対し、座ってやればいいのだ、座ってやるのはいけないとは書いてないという解釈です。こういうのを屁理屈というのではないでしょうか。立ち小便するな≠ニいう条文はどう解釈しても=この場所ではオシッコをしてはいけません=
という意味で小便そのものを禁じていることは子供でも理解できます。国民の模範となるべき国会議員は子供以下の理解力というべきでしょう。
ともあれ安倍内閣はこれから座ってオシッコをすることに決めましたが、何故わざわざしゃがんでまでオシッコをしたいのか、それは堂々と世界中で立ち小便をしている米国と一緒に連れションをしたいからです。これから日本は立ち小便をする米国の後ろにくっついて座ってオシッコをしなくてはなりません。これを後方支援といいます。これが「連れション法案」です。問題なのは安倍内閣が米国の後について座りオシッコをする行為を積極的平和主義などと自我自賛していることです。
どうせなら米国の後方支援などと言ってないで、米国にとって変わる堂々と立ち小便したらどうか、その方がよっぽどスッキリすると思うがその根性は持ち合わせていないようです。押し付けられた立ち小便禁止≠変えないなら、押し付けを米国の後方支援に甘んじるのは屈辱ではないのかな。
米国に従属する同盟関係のどこが普通の国なのでしょうか。これは積極的平和主義どころか例えて言うなら強いジャイアンにくっついて行動を共にする「積極的スネ夫主義」というべきもので自主独立の気概が全く感じられません。もしかしたら自虐的内閣?安倍内閣のめざす普通の国は、武力でもって国民の生命と財産を守るということで、武力に対してもっと強い武力で抑止するという考えです。
これほど矛盾している話はありません。そもそも武力と平和は相入れません。世界中の紛争は武力をもって行われていますが、武力では解決できていません、
武力を抑止するのに武力でもってするというのは、貼り紙を禁止するのに“張り紙をするな”という貼り紙をするようなもので、人々の支持を得られないような矛盾にみちたものです。従って、この安保法案は別名『貼紙事態法』ともいうべきものです。
さらに安倍内閣の根本的な考え方は「大阪のおばちゃん思想」だということです。

ずいぶん昔のことなので、記憶ちがいがあるかも知れないのですが、TVで大阪の警官が駐車違反の取り締まりをしているとき、違反したおばちゃんが警察官に向かって「何でうちだけねん、あっちも違反しとるやないけ。あっちも取り締まらんかい」と食ってかかっていました。
もちろん大阪のおばちゃんがすべてこんな人ばかりでないことは言うまでもなく、すばらしい人がたくさんいることも知っています。
番組を観ての比喩的表現で「大阪のおばちゃん思想」とかってに名付けたのです。ごめんなさい。
ようするに、言わんとすることは安倍内閣が、人がやっているから自分もやる、他国が軍隊を持っているから自分も持つ。それが普通の国だ、という考えに支配されているということです。
そう言えばいつだったか、大阪のいちばんえらい人が従軍慰安婦について、どこの国でもやっているというような主旨の発言をしたことがありました。
これもことの是非ではなく、みんなやっているじゃあねぇか!といいたいわけで、おばちゃんの考えと同様です。
駐車違反をした場合、他の違反者のことをどうこう言うより、違反した自分を恥じるべきであって、他人も同じ違反をしているだから自分がやったっていいじゃないか、というのは違反の肯定につながります。平和をめざす国はどうあるべきかなど、人類に対しての理想もなく、所詮人間は違反するものだから要領よく立ち回ったほうが得だ、というようなおおよそ人類の理想とは真逆な思想だということで、憲法9条を持った国をあずかる者としての理念がない。
日本国憲法はその前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」とうたっています。
ここのところが安倍内閣にとって魚の骨のようにノドにつき刺さっているので、憲法に違反してまで閣議決定をして、国会で強行採決をしてでも変えたい根拠となっていることがわかります。
安倍内閣のめざすいわゆる普通の国というのは国益(国民の生命と財産)を守るためには戦争も辞さないという国です。
ちなみに過去70年の間、日本国民の生命と財産は外国との紛争によるものではなく、事故や災害でそこなうことがほとんどであるにもかかわらず、防災はいつも後手後手です。

以上、安倍内閣の安保法案は
@連れション法
A積極的スネオ主義
B貼紙事態法
C大阪のおばちゃん思想
この4点をおさえておけば大学入試はバッチリです。
どこの大学かはわかりませんが、あっ!と法案は可決されるので、案ではなく法となります。
安保法案は安保法となったわけです。入試の引っかけ問題にご注意。
子供にもわかる安保法案でした。


おなら丸
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2015年04月14日

戦後70年

戦争がなぜなくならないのか。
簡単な理由だ。
戦争したい人がいるからだ。
戦争をしないという国禁を破ってまで、戦争したがる人がいるからだ。
誰とは言わないが、日本の総理だ。
信念の固さは大河ドラマの吉田松陰のようだ。長州人は信念の固い人が多いのかな。

パラオを訪問された天皇陛下は、積極的に平和を望んで行動されているが、総理のとなえる積極的平和主義というのは、陛下と真逆の考えのようだ。
総理の好きな戦前の体制ならば、こういう態度を不敬罪というのでは。
いづれにしても、じゃあ戦争したい人はなぜしたいのだろうか。
簡単な事だ。
国益のため、という名目で、資源を奪い合うから戦争が起きるのだ。
そしてこの国益というのが国民の利益と思わされて国民が戦争にかり出される。
パラオの戦闘では、自国民も相手国も現地人も含め、多数の犠牲者を出した。
陛下はこれらのすべての人々を国を問わず鎮魂されているのだ。
先の大戦への深い反省から生まれた、憲法9条の不戦の誓いを実践されているのだ。
本来なら憲法の実践者であるべき総理が、日本国民を代表して行くべきで、それでこそ積極的平和主義ってやつではないのか。

世界の多くの国が持っている軍隊を持って普通の国になりたい、という考えをよく耳にするが、
人が持っていても戦争するという考えは持たなくていい。
その考えを捨てない限り戦争はなくならない。
タバコの吸い殻がポイ捨てされているのを見て、皆がやっているからと自分もやるようなものだ。
積極的にポイ捨てをなくすには、ポイ捨てする人と違った考えの、ポイ捨てをしない、という考えを持つしかないのは子供でも理解できる。

総理の提唱する積極的平和主義が、平和に結びつかない事は子供でもわかる。詭弁というしかない代物だ。
というより、詭弁をろうしてでも国民をあざむき、米国の資源奪い合いに参戦したいのか。
陛下のお心に比べてなんて姑息で滑稽な考えなんだろうか、積極的平和主義って!

おなら丸


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2015年04月07日

小便小僧

4月1日付けのT通信に発行人のTさんの面白いご意見が載っていました。
男の立ち小便、立ったまま小用を足す、いわゆる立ちションについてのご意見です。
それによりますと、最近、女性のように、洋式トイレに腰掛けて小用を足す男性が増えたということらしいのです。
ある調査では男の半数以上との結果も出ているようです。
記事から推察してみるに、洋式トイレで立ち小便すると、小便の飛沫が便器にあたって回りが汚れるので、当然それを掃除する側からはやめてという指示が出てきます。その要求に従ってか屈してかわかりませんが、要求を受け入れた男性が増えたということになりましょうか。
いずれにしましても男性が自ら進んでそうしたのではないと思われます。

何故か。
例えば座って用を足す男性は外の公衆トイレではどうしているのだろうか。
公衆トイレの男子用には大便用の便器は和式、洋式を問わず便器そのものが少ないので、仮に50%もの男性が座って用を足すのだとすると、男子トイレに長蛇の列が出来ても不思議ではないと思うのですが、今のところそんな光景にお目にかかったことはありません。
だとしますと、家で座り小便をしている男は、外では立ち小便をしているということになり、男の本能は公衆トイレで満たされ、
さらに公衆トイレは汚しても家のトイレは汚さなくても済むということになり、掃除をする人(主に奥様か)ともいい関係を維持出来るということになるわけです。
八方丸くおさまる考えではありますが、男としてはダブルスタンダードであるだけでなく、男を捨てた感があるのは否めません。

それはともかくとして、Tさんは男が洋式トイレで立って用を足しても、便器を汚さない方法を解説付きで紹介しています。
それは独りよがりのスタイルではなく、全ての男性に通用する一つの流派と言える方法であります。
さらに男子にとって立ちションは古来より普遍のスタイルであり、男のアイデンティティであると宣言しています。
従って母親が(便器が汚れる)という女性の観点から、息子に座りションを教えることはいけないことで、
逆に正しい立ちションのスタイルこそ教えるべきであるとのべています。
おそらく将来、男のアイデンティティが喪失されるおそれがあるのを憂いておられるのだと思います。
立ちションについては私もTさんとまったく同感です。
立ちションこそが生物としての男に許された自然の姿なのであり、男が座って小用は足すのは非常に不自然な事なのです。
例え時代の要求であってもこれだけはゆずれないという男性は少なくないと思います。

例外的にやむをえず男が座って小用を足すのが許される場合もあります。
大便をするために座ってたら小便が出てしまって、結果的に座りションになってしまった場合とか、
「立ち小便をするな」と看板がある場所などで、尿意を我慢できずに座ってやったという方法を使った時などです。
あっ、それともう一つ。足が不自由な方は座るのが当然なのは言うまでもありません。
これらの場合は例え形は座って用を足したとしても、男を捨てたというような感情は生まれません。

男性と女性の小用装置を生物的な差異でみれば凸か凹かということであり、男は凸であるから立ちションが可能なのだということになります。
若くて元気のいい男など大便と一緒に放尿したら、凸の角度によってヒザまでおろしたズボンを直撃してしまった、などという経験をした男性は相当数いるのではないでしょうか。
そんな場合には凸を人差し指で押して角度の調整をしなくてはなりません。
やむを得ず座らなくてはならない大便の時でさえ、このありさまであります。さらに小用のために座るなどということはまったくの論外とも思われる行為なのであります。

ことほど左様に男にとって座りションは不便で不自然なものなのです。
オス犬が片足をあげて立ちションをするのにも、それなりの自然なワケがあるはずです。
このまま人間の男子が座りションをするようになってしまったら、犬に笑われてしまうかも知れません。

洋式トイレでの立ちション、是か非かというより、要は汚さないで済む技術があれば、立ってやろうが座ってやろうが問題はないわけです。
そして技術は磨けば身に付くものです。
ですから昔の田舎の女性などは、田んぼの中で尿意をもよおしたときなど、女でも実にどうどうと尻をまくって立ちションをしているような、おおらかな光景でありました。
まあ、一応あまり一目につかないようにはしていましたが。
ちなみに私の母親は男用のキンカクシにうしろ向きに立ちションが出来ました。
村のおばあちゃんはほとんどの人がこの技術を会得していました。
しかしこの男顔負けの高度な技術は伝承されることなく姿を消しました。まことに残念の極みであります。

男が何故立ちションにこだわるのかを問題にするよりも、そもそも、男のズボンに何故社会の窓があるのかに注目したいと思います。
あれこそ男が立ちションをするために作られたものであり、男は社会の窓から用を足すことによって、社会への目を開かれて行くのです。
例えば昔の田舎の家など、トイレが母屋から独立して建っていたりします。
子供が夜中にトイレに行きたくなっても、外は真っ暗でお化けが出るかもしれません。
外のトイレまで行って用を足して、無事に帰ってこられる保証はありません。
そんなときは母屋の雨戸を少しあけて、そこから外の暗闇に向かって放尿するのです。
真冬なんか朝にその跡が凍っていたりして、まさに芸術的である
そんなふうにして外の危険を回避して用を足せるのも、男に立ちションできる機能が備わっているからであります。
従って男たるもの幼少から、その機能を有効利用するべく技術を磨かなければなりません。

私の知り合いにそれを怠ったまま大人になった男がいます。
彼は立ちションをするときズボンを足首までおろして、用を足すのです。
幼少の頃、社会の窓から凸の出し入れがうまく出来なかったので、母親がズボンを足首までおろして用を足すことを教えたら、それがクセになってしまったのです。
これでは社会への目が開かれません。
ある時、用を足していてちょっとバランスをくずし、足の自由がきかないので人前でコケてしまったことがありました。
いくら立ちションをするとしても正しい方法と姿勢なくしては完璧な立ちションはできません。

立ちションについてゴタクを並べてきましたが、最後にひとつ指摘しておかねばならないことがあります。
それは便器屋さんについてのことです。
家庭に洋式トイレを普及させるのはかまわないのですが、どうして大小共用にするのか。
もちろん住宅事情というのが大きな問題ではありますが、本来放尿する装置が凸凹で違うので、凸の高い位置で凹は用を足せないが、凹の位置には凸もあわせることができます。
それが座りションだとすると、もともと便器の都合で座りションが普及したことになります。
つまり、人間の都合に便器があわせるのではなく、
便器の都合に人間が合わせるということになるわけです。こういうのを本末転倒というのではないでしょうか。
ついでにいうと、なぜ飛沫が飛ばないような便器は開発されないのでしょうか。
水のたっぷり貯まっている洋式トイレに階上の社会の窓から放尿したら、飛沫が飛ぶのは火を見るより明らかです。
仮に立ちションの流派に属しているような強者でも、時には酔っぱらったりしていたら、中央の水たまりの縁をちょっとはずしたりして、心ならずとも飛沫を飛ばしてしまうことだってあるでしょう。
そんなとき飛沫を心配せずに楽に用を足せたらこんなに素晴らしいことはありません。

お湯を出したり熱風を出したり衛生的な装置の開発に余念のない便器屋さんが、飛沫を防ぐ工夫ぐらいはすぐできるように思えるのですが、もしそれが発明されたなら、トイレのカレンダーをみつをからしゅうぞうに変えてもいいと思っています。
飛沫、飛沫と瑣末なことにこだわるなとお叱りを受けそうですが、飛沫は何もトイレに限ったことではありません。
人と人とが顔を突き合わせてしゃべっているときだって、細かい唾液の飛沫が飛んでいます。
よく話しながら食事をしているときに、自分の口からかんでいる食物のカスがお話し相手に向かって飛んでしまった人も人も少なからずいるでしょう。
トイレの汚れはふけばいいが、口からの飛沫はもしウィルスがいれば直に相手を危険にさらすことになります。
放射線などは見えないから、汚染されていてもわからない。立ちションの飛沫など比較にならないほどです。
原発はトイレのないマンションといわれるように、汚染されたら防ぎようがありません。

原発の汚染は平気で、自分の家のトイレの汚れだけが気になるのだとしたら、木を見て森を見ずってやつかも知れませんし、いずれにしてもトイレの飛沫なんて、男のアイデンティティを放棄してまで気にする程のものではないと思いますがいかがでしょう。
なんて、飛沫の事を書いている私のヒマつぶしにお付き合いいただいてすみませんでした。

この辺で・・・。

飛沫武士 おなら丸


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2015年02月27日

趣味について

お久しぶりです〜ウワガワです。
突然ですが、皆さんには趣味はありますでしょうか?
映画、音楽、ものづくり、ガーデニング、旅行・・・どれも素敵な趣味ですね。

僕の趣味はプラモデルです。
パーツを組み立てて、動かして遊んで、想像をふくらませ、
色を塗ったり改造したり・・・同じキットでも、十人十色の完成品がある。そんなところが好きです。

業界人として、人を楽しませる側でなくてはならない自分が言うのもおかしな話ですが、趣味は大事だと思います。
趣味は、「おもむき」に「あじ」と書きます。
自分の好きなことを、自分のペースで、こだわりを持ってやる・・・
その中で、自分の感受性を広げ、「おもむき」や「あじ」を感じ、あるいは生み出す。
人生を豊かにする、とても重要なものだと思います。

趣味は自分の世界です。
端からみれば、とるにたらない、くだらない事に思えるかもしれません。
けれどその人が、その人の人生の中で、その人だけが積み重ねてきた想いがあります。
あるいは、同好の志と語り合い、共有した想いもあります。
それこそが、人生の彩りであり、救いであり、明日への活力になっていくと、僕は思っています。

人の価値観は十人十色。プラモデルも十人十色(←おいおい。)
そのどれもに、その人のこだわりや思い出があり、その人だけの聖域なのです。
例えくだらなく見えても、他人には決して侵せない領域なのです。
閉鎖的な考えかもしれませんが、人にはそういう部分も必要だと思います。

エンターテイメントの業界人として、たくさんの人にそういう時間を提供していきたいな、と、思っております。

ウワガワ





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2014年06月26日

「一番いじめるやつ」

「勉強ができない、ケンカも弱い、お金持ちのせがれが一番いじめられる」
と、麻生総理が言ったらしい。集団的自衛権行使の必要性を訴える比喩らしいが、アメリカは強い、中国はいじめっ子、お金持ちだけで弱い日本はいじめられないようにアメリカの子分になろうというおすすめか。

どの程度のお金持ちを「金持ち」というのかわからないが、半世紀も前、ワシが小学生の頃、お金持ちの代議士のせがれがいた。
体は小さかったがお金持ちなので、子供用の自転車やぜいたくなオモチャなど、当時一般家庭の子供は手に入らないようなものをたくさん持っていた。
彼はその珍しい高価なオモチャをちらつかせては、自分に従う友達をどんどん増やしていって、とうとう朝の登校時には子供たちはみんな彼の家の前で待機して、いっしょに登校にするようになった。まるで大名行列のように集団で登校するのである。今の集団登校とは意味が違う。
そんな状態だから、その集団に加わらない者はいじめの対象になり、彼は手を出さず、子分のようなとりまきがいじめをして従わせるのである。
このお金持ちのせがれは長じて親の地盤を継いで代議士になったが、その後身内がからんだ土地不正取得かなんかやらかして一度議員をやめたと聞いたが、今はどうしているかわからない。

集団的自衛権の行使容認に積極的な安倍総理も代々政治家の家庭に育ったお金持ちのおぼっちゃまだから、自分個人の能力以上の力が働いて総理まで登りつめることができたことは否定できないだろう。
戦争できるふつうの国という考え方も、相手がいじめるからいじめ返すという発想は、いじめる人と同じレベルであっていじめを肯定していることに他ならず、それではいじめそのものをなくそうということにはならない。
まして安倍総理は自らが体をはって戦地で戦うわけではなく、やれ!と命令するだけである。麻生総理も代々政治家のお金持ちだ。もしかして「勉強できなくてケンカも弱いお金持ちのせがれ」って自身のこと?
勉強できなかったというのは何となくわかります。
でもいいじゃないですか。勉強できなくたって東大に入れなくたって、漢字が読めなくたって総理になれるってことを子供たちにお手本として教えることができたんですから。

おなら丸

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2014年06月23日

【ウワガワのアニメ世代コラム】♯1 目指せ反面教師

生まれは松山、学びは神戸。
やってきました江戸の西。ウワガワでございます。
この春からエクラアニマルに仲間入りしました新入りです。どうぞよろしく。

早速で不躾ではございますが、自分語りをばひとつ。

先日、DVDレンタルショップでのことだ。
小学校低学年くらいであろう、小さな男の子が、店内に貼ってあった人気深夜アニメのポスターを見て言った。
「あ!○○(キャラの名前)だ!」
親がその隣のキャラを指さし「こっちは?」と聞くと、名前が出てくる。その隣の、別の深夜アニメのポスターを指さして聞くと、そのタイトルも出てくる。さらに、そのポスターに描かれた美少女キャラを指して「どれが一番可愛い?」と聞くと「うーん、この子かな」と言う。
僕はぎょっとした。今時の子供は、深夜アニメなんぞを観ているのか。親はどういう教育をしてるんだ。そんなものを観て育った子供はいったいどうなるんだ・・・。などと、ちょっと危ない人のようにぶつぶつと呟きながら帰路につき、自分が借りたDVDを見てハッとした。アニメのDVDだった。

「ああそうか、俺みたいになるのか…。」

僕は、アニメとゲームで育ったと言って過言ではない。
僕が幼いころ、僕の両親はケーブルテレビと契約し、我が家にアニメ専門チャンネルを導入した。24時間、アニメしかやっていない(むろんその中には深夜アニメも多分に含まれる)、冗談みたいなチャンネルである。僕は狂喜乱舞してそのチャンネルの視聴率に貢献した。それはもう、他のチャンネルには目もくれぬ勢いである。さらに、我が家には贅沢にもテレビが3台あり、親兄弟がリビングでテレビを見ていようが、僕は気兼ねなく別間でテレビゲームに興じることができた。やがてインターネットに接続されたパソコンもやってきて、在りし日の僕の脳ミソは漫画と電子に支配されていった。

気がつけば僕は、20過ぎにもなってアニメばかり観ている。
ワールドカップに日本中が熱中している今、その話題にもついていけず、会社の先輩には呆れられるばかりである。スポーツだけではない。映画、芸能、政治、経済、歴史、一般常識・・・あらゆることに関して僕は無知すぎる。僕にイマイチ忍耐力が無いのは、アニメとゲームの快楽に浸りすぎたせいだと思う。就職して上京した僕は今、違う世代の人たち、人生の先輩達と出会い、あまりの己の不勉強さを猛烈に痛感している真っ最中である。

昨今、インターネット等の普及で、情報がうんと手に入りやすくなった。
それに伴い、欲しい情報を、欲しい部分だけ得ることができるようになった。得る情報を自らが選択できる時代になった。その結果、僕の世代は、自分の興味のある分野に対してはより追求する反面、広い分野にわたって知識を得る人は、減少の傾向にあるかもしれない。

僕を洗脳した専門チャンネルなどはいい例だろう。もし僕が普通のチャンネルを観て育っていたら、今の僕ももう少し違っているかもしれない。

なんだか、こんな風に書くと、まるで僕がどうしようもないダメ人間で、アニメは人間を堕落させる諸悪の根源のように思えてきて目から汗が出てきたが、続けよう。

僕は自分が環境の犠牲者だとは思っていない。情報を選択したのは自分自身だし、それに、アニメで育ったことを決して後悔はしていない。
10代のうちに出会ってよかったと思える素晴らしい作品にも多く巡り会えたし、アニメを通じ、尊敬できる人々にもたくさん出会った。なにより、アニメを好きにならなければ、僕は今こうしてこの業界にもいなかっただろう。アニメを観て育ったからこそ、アニメの持つ可能性を知った。そして今、ときに危険とも言えるアニメの影響力を身をもって感じることができた。

だからこそ、「子供たちに本当に見せたいアニメを手づくりで、心をこめて作りたい」というエクラアニマルの想いに惹かれた。アニメの氾濫する渦中で育った自分だからこそ、考えられる事があると思っている。

そのためにも、今まで知ろうとしてこなかったことを、知る必要がある。
子供にものを届ける立場の人間として、これではいかん。
アニメに洗脳されてしまった世代の一人として、いつか「立派な反面教師」になるべく、修行の日々を続けよう。

稚拙なうえに長くなってしまって失礼しました。
どうか、生暖かく見守ってください。(ウワガワ)

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posted by アニメ制作会社エクラアニマル at 23:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | コラム