2018年05月22日

自己満足をしたい生き物

2017年の夏、トイレから出たワシはあるトラウマに襲われた。手水鉢で手を洗おうと蛇口をひねったとき、排水口の近くにクモがいることに気づいた。その時、自分の脳裏に浮かんだのは芥川龍之介の『蜘蛛の糸』というお話である。
極悪非道のある男が、一度だけ蜘蛛を助けたことがあり、死んでから生前の悪行によって地獄で囚人となり、ほかの囚人たちと血の池地獄であえいでいた。そこへ、お釈迦様が生前にクモを助けた優しい心に免じて男を血の池から救ってやろうと上から蜘蛛の糸を男のもとへとたらした。男は夢中で糸を上り始めるが、下を見るとあとからあとからほかの囚人たちが登ってくる。このままでは糸が切れてしまうと思い、男は「これは俺の糸だ。みんな降りろ!」とエゴをむき出しにして怒鳴った。するとプツンと糸が切れて男は血の池へ落ちてしまったというようなお話だったと記憶しているが、お釈迦様はエゴにまみれていた男の心が変わってないので救うのをやめてしまったのではと思ったワシは自分ならそんな失敗をしないと思い込んで育った。悪いことをしたら地獄に落ちてしまう。そのためにはいいことをするしかない。仮に地獄へ落ちても蜘蛛を助けておけばお釈迦様が必ず救ってくれる。こういう図式が幼いワシの心に刻みこまれた。そして、いま、蜘蛛を助けなければいけない状況が目の前にある。ワシは蜘蛛が排水口に落ちないようにそっと蛇口を閉め、水を止めた。その時である、水を止めたにも関わらず蜘蛛はポロっと排水口に落ちてしまった。「あーっ!これで俺の蜘蛛の糸はなくなってしまった。」と思ったらそれから一週間ほどしてクモ膜下出血で倒れてしまった。
 そこは全くの無だった。うっすらと夢をみていたような記憶もすこしあるがなんか重苦しい感じのものだったような気がする。その間自分の脳は全く機能してないのだからいわゆる脳死のような状態だったのではあるまいかと思う。よく言われる臨死体験のようなこともなかった。もしこれが脳以外の病気だったらいっぱい夢を見たかもしれないが脳の機能が停止しているのだから夢も見ない。ということはあの世も霊魂も認識できないのだから自分にとってはそれらは存在しなかったということになる。「我思う故に我ありだ」我が思わないのだから我もない。つまり、あのまま死んでしまえば自分にとってあの世はないことになる。生物的には心臓は動いているのだから死んだわけではないが意識が戻らずそのまま死んでしまえばあの世に行ったのではなく無の状態になったと理解するしかない。どのくらい時がたったのか。自分の意識が戻った時、最初に目に飛び込んできたのはきれいな女性たちだった。天使と見紛うような美人ばっかりだったので驚いて起き上がろうとしたが体が動かない。やがてそこが病院の集中治療室で自分が無意識なのにやたらと暴れるので看護師さんにベッドに手足を縛りつけられていたらしい。ということがわかり意識が完全に戻ったのである。
 この体験から自分なりの想像をしてみると、自分にとって天国も地獄もいわゆるあの世は存在しなかったということである。つまり、人間死んだら肉体も霊魂も存在しない無になってしまうということだ。悪霊とかたたりとかいうのは人間の脳が作り出す思い込みではないかということである。独断と偏見を承知でついでに言えば、宗教というのも人間が現世を楽に生きるためのモチベーションとするべく思い込んだ大いなる思い込みの産物ではないかと思える。厳しい社会を生き抜くために人は心によりどころを持ちたいと思う。それは信仰と呼ばれるものかもしれない。個人個人にとってそれはとても大事なものにちがいない。しかし、これはずっと前から思っていることなのだが、人生に意味などない。人生は死ぬまでの暇つぶし、生まれて飯を食ってウンコして死んでいくという存在でしかないということをワシはこの体験から改めて実感した。
人は死を恐れる。おそらくそれは、脳を発達させた人間が、自分は必ず死んでしまう存在であるということを自覚する動物だからではないかと思う。往生際の悪さもそのことが原因なのかもしれない。明日の死を自覚することがないワシのペットのうさぎなどじっとしているときのたたずまいは生死など超越したと思えるような神々しい表情をしている。確かに人は死んでしまう存在ではあるけど煩悩を持っているので人生でやりとげたい夢や様々な欲望を持つ。なるべく死を遠ざけたいとかせっかく生まれたんだから何か残したいとか要するに生きることに意味を見つけたい、と思うようになる。つまり暇つぶしのやり方が様々な価値観を生み出す。座して死を待つには時間が長いし、かといってすぐ死ぬのは嫌だし、おまけに生身を維持するためには何か食わなければならないし、食ったら排泄しなければならないし、自分の本能を満たすだけでも一人では難しい。生んでくれた親や生きる社会とかかわりなく生きることはできない。他人の力を借りなければ自分を維持することもできない存在なのだから、人間互いに人のために何かできることをやるのは当たり前なことだ、しかし社会の教育は自分のためにやれと教えることが多い。「他人に迷惑をかけなければ何をやってもいい。」と教えるのではなく、「人は他人に迷惑をかける存在だからやってはいけないことはやってはいけない。」と教えるほうがいいと思う。そしていつも自分より先に他人という考え方、自分ファーストではなく、他人ファースト(ファーストといえばワシの子供のころはジャイアンツの王さんのことだったのだが・・・。)
他人が先、互いにこういう相手を慮る考え方を心がけ信頼関係を築いていけば争いをなくしていけるのではないだろうか。いずれにしても人は何故、人生の意味を見出そうとするのか?ほとんどの人が自分の人生について語るとき、多くの人は自分が死ぬときにいい人生だったと思える生き方ができたら最高と思っているようだ。つまり、人はお金持ちでも、悪人でも、平凡な人でも振り返っていい人生だったと満足できるような生き方を望んでいるということになる。実際に自分が満足できる人生を送りたいと思っているという話はよく聞く。ということはつまり、人の人生は自己満足であるということができる。
 人には様々な生き方があるように様々な自己満足がある。お金儲けで自己満足を感じる人、政治家になって世界を動かすことが自己満足な人、スポーツの頂点を極めることに自己満足する人、悪事をなすことに自己満足する人、困っている人を助ける行為に自己満足する人。究極、人生は自己満足と結論づけることができる、とすれば、できれば多くの人が他人に害をなさず、世のため人のためになるような行動に自己満足を覚えるようになれば、つまり日本国憲法の前文のような自己満足をめざしたら、世の中はきっといい方向に変わるに違いないと思われる。
                                             
おなら丸

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posted by アニメ制作会社エクラアニマル at 12:39 | Comment(0) | コラム
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